2010年3月11日木曜日

8)私が子どもだった頃【大道町内会 鈴木 巽】

お墓の掃除をするために、小高い山の上にある菩提寺の大道の宝樹院の裏山に登ることがあります。山の傾斜地にある墓地の最上段に立って前方を眺めると、夏島、野島山、六浦方面やお伊勢山から遠く釜利谷方面に続く山々がー望出来ます。更に目の前に飛び込んでくる光景は、平地も山の上も無数の家また家、高層の建物の連続で圧倒されます。じっとその場にたたずんで、自分の幼い頃の、のどかな大道の様子や出来事などを思い返してみることがあります。私は昭和の始め、この宝樹院の石段近くの家で生まれました。現在はお寺の裏側に車が登れる道がありますが、その頃は、その坂道はありませんでした。当時は土葬でしたので、お墓に埋葬するために亡くなった人を担いで長い石段を登るのは大変な労力でした。

その頃、お寺は子どもたちの遊び場でした。お寺の縁側の下の砂地にアリ地獄の巣がありました。アリ地獄は、「うすばかげろう」の幼虫が中に隠れているスリバチ型の穴で、落ち込んだアリなどを捕まえて体液を吸うのです。アリの代わりに、草でつついたりして、いたずらして遊びました。そんな、いたずら坊主たちに、当時、子どものいなかった、お寺の奥さんがよく菓子をくれました。

また、宝樹院の境内には、今は廃寺になっていますが、私たちが常福寺と呼んでいたお寺の小さなお堂がありました。私が小学校低学年の頃、夏休みになると大道の小学生は全員このお堂に夏季学習帳を持って集まり、仏様の前で上級生の指導で勉強しました。夏の楽しい寺子屋でした。私たちが何も知らずに勉強させて貰ったこのお堂の仏様は、平成3年に解体して修理をしたときに、像内の納入品から平安末期の久安3年(1143年)に造立された平安佛であるという証拠が見つかり、この阿弥陀三尊像は神奈川県の重要文化財に指定されました。

私の子どもの頃に大道に建っていた家は、関東大震災で建て直した家以外は、ほとんどが茅葺屋根でした。当時の大道は村として茅場と呼ばれる山を所有していて、毎年、1月中頃になると村人総出で茅刈りに行きました。子どもたちは、昼近くなると親たちが食べる弁当を細い山道を一列になって届けに行きながら、帰りは急な斜面になっている茅場で遊びました。刈り取った茅は夕方大人たちが体が隠れる様な大きな束を背負って山から降りてきて、村の1ケ所に積み上げておき、屋根替えの必要な家から村人総出で葦き替えを手伝いました。葦き替えは屋根屋と呼ばれた人たちを中心に仕上げていく、当時30数軒の家しかなかった村の一大行事でした。

大道の中心を通っていた旧鎌倉街道は、当時、道幅4m弱の砂利道で現在よりも低い位置にありました。六浦原宿線と呼ばれる現在の道路は、当時大船に海軍の施設を作ったので昭和17年から終戦時にかけて、横須賀と大船を結ぶ軍用の道路として突貫作業で改修が行われました。戦前の大道は鼻欠地蔵あたりまで見渡す限りの水田地帯でした。現在の大道橋の上流50m位の所に田圃に引く水をせき止めた大堰があり、堰の上側の水溜まりで子どもたちは泳ぐことが出来ました。更に上流にもう一つ堰がありました。大堰の近くの奥まった谷戸には渇水期の用水のための大池があり、秋になると、この大池の栓を外して水を抜きました。中にはウナギや小魚がいっぱいいて、子どもたちは夢中で捕ったものです。

下流にある山王橋からその上流の現在の二の橋あたりまでの侍従川の南側の川沿い一帯に桃の果樹園があり、春にはー面ピンクの花に覆われました。夏が近くなると、稲の苗作りから田植の時期です。侍従川の堰から導いた水路からの水を、持ち主の違う田圃へ出来るだけ均等に流れ込む様に配分するのが大人たちの仕事でした。小学校から帰ってきた子どもたちは、自分の家の田圃への水がちゃんと流れ込んでいるか見守りに行きました。「我田引水」とは、この様なところからきた言葉なのでしょう。それほど侍従川の水は田圃にとって大切なものであり、大道に住む人たちの命の源でした。

昔の侍従川は大道の辺りでは、もっと浅く、川幅も狭く曲がりくねっている所もあり、童謡に出てくる様な、のどかな清流でした。山王橋から東側は、もう少し山側に入り込んでいた記憶があります。当時の侍従川は、大雨の時は氾濫することもありました。私も侍従川を背にした所に住んでいますので、床上浸水の体験があります。しかし、その後の大改修、下水道の完備、この川を愛してくれる人たちの努力で、氾濫することもなくなり、以前にも増して多くの生き物のいる清流に戻ってくれたことは本当に嬉しいことです。

私の子どもの頃の忘れ難い思い出として、昭和10年代のことがあります。昭和12年に中国と日中戦争が始まり、それが拡大して16年には太平洋戦争に突入しました。その間、近所の大人が兵隊として、次々に出征して行きました。町内の子どもたちも、朝早く、日の丸の小旗を振りながら金沢八景駅まで送って行きました。出征する人は電車の最後尾の窓を開けて、見送ってくれた人たちに必死に両手を振って出発して行きました。私の兄3人も次々に出征しました。太平洋戦争も敗色の濃くなった昭和20年7月、三男の兄がフィリピンのルソン島で戦死したとの公報が届きました。兄の遺留品は何一つ戻ってきませんでした。23歳という若さでした。

米軍の反転攻勢で遂に日本国内への空爆が始まりました。艦載機による機銃掃射、サイパン島を発進した米軍のB29重爆撃機の爆弾や焼夷弾攻撃による攻撃です。昭和20年3月10日には東京大空襲、6月29日の横浜大空襲、そして6月10日には、この金沢区富岡地区周辺がB29による空襲を受けました。当時富岡周辺には横浜海軍航空隊や、日本飛行機、石川島航空工業、大日本兵器などの民間の軍需工場が取り囲む様にありました。横浜海軍航空隊には水上艇が配備され、日本飛行機では練習機を、石川島航空工業では零戦のエンジンを作っていました。私は石川島航空工業で働いていました。

その日は、9時前後だったでしょうか、空襲警報がなり、大多数の従業員は会社の前の山にある大きな防空壕に入りましたが、私は防火隊のメンバーだったので工場内にいました。B29の編隊が見えたと思ったら、いきなりヒューンという音がしましたので、目の前の防火用水のコンクリートの陰に倒れ込みました。大きな爆発音の後、静まるのを待って、様子をうかがうと、隣の日本飛行機、横浜海軍航空隊の方で、黒煙が上がっておりました。その日の夕方、毎日利用していた杉田の駅まで行くと、電車は不通になっていましたので、仕方なく線路の上を金沢ハ景に向けて歩きました。

富岡駅のすぐ手前の短いトンネルに近づき、トンネルの中に止まっている2輛連結の電車を見ますと、窓ガラスが1枚もありませんでした。この日の空襲警報で、この電車は乗客を乗せたまま、このトンネル内に避難していました。そのトンネルの両方の入口に爆弾が落ちて、その爆風で被害にあったのでした。トンネルの中にいた60名の乗客の中の40名くらいの人が即死してしまったそうです。

富岡地区では、この爆弾による空襲で59戸の家屋が全壊して、全焼した家屋は12戸もありました。また、その時の直撃弾でも多くの死傷者が出ました。トンネル内で被害にあった人も含めて、この空襲で亡くなった、たくさんの人々は富岡の慶珊寺(けいさんじ)の広い境内一面に並べられたそうです。

宝樹院の境内にも、太平洋戦争で戦死した大道の人たちの立派な慰霊の碑があります。墓誌によりますと24名の戒名が刻まれています。亡くなった年齢を見ますと多くの人が20歳代の若い人たちです。早いもので戦争が終わってから、65年という歳月が経ち、平和な世の中になりました。しかし、この平和は、この戦争で亡くなった人たちの貴重な犠牲の上で成り立っていると言うことを忘れてはいけません。これから、どんなことがあっても、この悲惨な戦争だけは、絶対に避けなければならないと強く思っています。

7)私が子どもだった頃【高宗台町内会 副会長 廣瀬 健】

私は、太平洋戦争の最中、日本各地がB29という名前の米軍機の襲撃を受け始めた昭和19年(1944)に、大道に生まれました。この辺りには、古くから続く旧家が33軒ありました。物心がつく前には戦争は終わっていましたので、戦争中のことは全く分かりませんが、戦後の荒廃した故郷、大道のことは、今でもはっきりと覚えています。

昭和25年〜30年頃の頃から、戦地から引き上げたり、畑地を造成した住宅に入居した人たちで大道の人口が増えはじめました。大道小学校の教室も足りなくなり、午前と午後に分けて二部授業が行われました。私が入学した時には、ひとクラス60名で6クラスでしたが、卒業する時には7クラスに増えていました。教室不足は、3年生くらいまで続きました。

人口が増えたため侍従川に生活廃水が流入して川の汚れが目立ち始めたのも、この時期のように思います。また、六浦原宿線は大部分が舗装されていませんでした。瀬戸の京浜急行のガードから、現在のスーパー横浜屋の辺りまで一車線のコンクリート舗装でしたが、それより先の西大道、朝比奈の相武隧道、上郷、原宿まで、あちこちに大きな穴があく悪路が続いていました。冬の乾燥期や雨の降らない時などは、砂埃が舞い上がり、道路の近くの家は随分迷惑したようでした。

しかし、交通量は少なくて、たまに神奈川中央バスや米軍の車が走る程度でした。バスの中には木炭車も混じっており、鼻欠地蔵の前で運転手が降りて車の後方にある釜に木材を補給して朝比奈の峠をのぼって行く光景を覚えています。地元の住人が田畑への往来にリヤカーをひいて通るのどかな田舎道で、お年寄りが通りすがりに、モグラに掘り返された荒れた道を道普請している姿もありました。私の家から畑や田圃越しに六浦原宿線や大道小学校が見渡すことができて、たまに、追浜にあった富士モーターという自動車工場で修理するための軍用の車や消防車などの緊急の車が通ると珍しくて、兄と走って見に行ったものです。

大道は、武陽金澤八勝夜景の図など廣重が描いた金沢八景の景勝地をはじめ、現在は、かなりの部分を埋め立てられましたが平潟湾が近くにあり、海と山が隣接する極めて自然豊かな地でありました。その中でも、大道から朝比奈にかけて続く畑や田圃、人家と田畑や山・丘がうまく調和している里山、そこを流れる侍従川は、私をはじめ子どもたちの絶好の遊び場でした。遊びの種類はたくさんあって、そこに存在するあらゆる物を遊び道具に使いました。侍従会の会報にも先輩諸氏からたくさん紹介されていますが、侍従川での魚捕り遊び、里山での戦争ごっこ遊び、田畑周辺でのかくれんぼなど数え切れない遊びが脳裏によみがえり、私自身が懐かしく当時を想い起こして、読ませて頂きました。

この紙面で一つご紹介したいことは、私たちの住む町の呼び方や名称が時代とともに変わっているということです。例えば六浦は、今では、むつうらと言いますが「むつら」であり、大道は地元の方は「でいどう」と言っていました。朝比奈は朝夷奈(あさいな)、高舟は高宗(たかぶね)という地名が依然は使われていました。この六浦周辺がどのように変わって行ったかを、後で幾つかご紹介します。

まだまだ、沢山の想い出や経験した事柄があり、侍従会の会員である甥の隆夫から投稿を依頼され、当時のことを出来るだけ多く披露するつもりでしたが、事前準備もないまま記述に及び、取り留めのない内容となりましたがご容赦ください。失われた部分が多い、わが故郷を「ふるさと侍従川に親しむ会」の方々により今後も維持管理して頂くことが、残された「自然を守る手段」であると、私も確信しています。橋上から孫の手を引いて侍従川を覗く方々に「昔の侍従川はもっと綺麗でした」などと言い訳を言わなくても良い状態に、現在の侍従川は甦っております。日頃の地道な活動には大変感謝しております。誠にありがとうございます。会員各位には、長くこの地に住む者として心より御礼申し上げます。

【六浦(むつら)の主な変遷】
1147 文久3年 常福寺の阿弥陀堂造営(阿弥陀三尊像は県の重要文化財で今は宝樹院が管理)
1241 文治2年 朝夷奈三郎義秀が一晩で切り開いたという逸話がある朝比奈切通しが開かれる
1422 応永29年 称名寺造営費用の捻出目的で関所を設置(エールコーポレーションの辺り)
1873 明治6年 三分学舎(六浦小学校の前身)が開校する
1889 明治22年 三分村と釜利谷村が合併、後に朝比奈村が加わり六浦荘村ができる
1900 明治33年 池子トンネル(六浦―逗子間)が開通
1911 明治44年 白山道トンネル(六浦―釜利谷間)が開通
1930 昭和5年 湘南電気鉄道(今の京浜急行 黄金町―浦賀、金沢八景―逗子間)が開通
1944 昭和19年 六浦原宿線・相武隧道が開通
1944 昭和19年 大道小学校が大道国民学校として開校
1956 昭和31年 朝比奈―鎌倉間の道路が開通
1963 昭和38年 大道中学校が開校(六浦中学校から分校)
1978 昭和53年 高舟台小学校が開校(大道小学校から分校)

6)私が子どもだった頃【大道町内会 会長 小泉 隆良】

私が子ども時代を過ごした今から50年以上も前の大道は、山に囲まれ、侍従川が流れ、海も近くにあって、子どもたちの遊ぶところがたくさんありました。今の大道小学校が建っているところは、昔は田んぼでカエルがたくさん住んでいました。 夏になると、セミがたくさんいて、うるさいぐらい鳴いていました。

朝寝坊していると友だちにセミとり用のクモの巣を取られてしまうので誰よりも早く起きて取りに行きました。針金で丸くしたものにクモの巣を巻きつけてそれでセミを取るのです。クモの巣は、べとべとしているので一度かかるとセミは逃げられません。 夏休みは、みんなで勉強すると言って出かけるのですが、すぐに遊びたくなって、親には勉強は終わったと言って野島や乙艫海岸に海水浴に行ってしまうこともよくありました。

その頃の遊びは、ベイごま、ビー玉、めんこ、缶けり、騎馬戦、さし網、パチンコなどでした。ベイごまは、学校では禁止されていましたが、人気のある遊びでした。パチンコは二股になった木にゴムを取り付けて作ります。チームに別れて戦争ごっこをやるのです。

私は、小学4年の頃、パチンコで左目の上を負傷して失明寸前になってしまいました。かなり危ない遊びをやっていたんですね。さし網というのは、地面に穴を3つか4つ掘って、そこに遠くからボールを転がして点数を競うというものです。ボールが逃げないように網を張ったことからさし網と呼んでいたのだと思います。

侍従川にではウナギやハゼなど、色々な魚を獲りました。川のそばを掘って水がたまる場所を作るとそこに魚が入ります。その中にカーバイトを放り込んで火をつけると魚が苦しがって水面にあがって来るので、それを捕まえるのです。当時の侍従川には、ホタルが沢山いました。

夜、ホタルを捕りに行くのですが、注意が必要でした。ホタルの光の中にヘビの目玉が混じっているからです。下手に手を出すとヘビに指を噛まれるので木の棒で確かめながらホタルを捕った覚えがあります。

冬は、集会所の近くで凧上げをやって半日過ごしました。その頃は、集会所の回りは一面の田んぼで凧上げをするには格好の場所でした。大道小学校のトンボ池の裏側あたりに、大きな栗の木がありました。それに登って栗を取っていると、栗の木の持ち主のおじさんが出て来て、見つかると怒られるので、3時間もトイレを我慢して木の上にいた苦い経験もあります。

家にいると、外で遊んでこい、と言われるので家の中で遊ぶことはありませんでした。外でめいっぱい遊んで、家に帰るのはいつも夕刻でした。こんな調子で、あまり勉強はしないで就職するまで、毎日楽しく過ごしました。まわりの友だちも同じように遊びまわっていました。

3歳の頃ですが、太平洋戦争で米国の戦闘機が飛来したときに、親に背負われて防空豪へ逃げ込みました。その時に、両手に持っていた、おにぎりを落としてしまったということを、今でも覚えています。それほど、食料が大切な時代でした。

今は、戦争もなく平和で食べ物もたくさんあって、私の子ども時代に比べたらずいぶん良い時代になりました。その分、塾や学校の勉強がたいへんだと思いますが、子どもたちには、自然が豊かな大道で元気に遊んでもらいたいと思います。

5)私が子どもだった頃【ふるさと侍従川に親しむ会 廣瀬隆夫】

私は昭和30年(1955年)に大道で生まれ、侍従川の近くで育ちました。小さい頃は、パソコンもゲームもありませんでしたが、自然がたくさんあって山と川が遊び場でした。

祖父から聞いた話ですが、明治・大正時代の侍従川は、舟を浮かべて海から物を運べるくらい深かったそうです。関東大震災の時に三浦半島全体が隆起したために今の水量になったということです。泥牛橋の近くに昔の川の石垣が見えていますが、昔は川幅が今よりずっと狭くて大雨が降ると氾濫することがありました。伊勢湾台風の時にも氾濫して、今は空き地になっていますが、そのころ建っていた県営住宅の床上まで水が来たことを覚えています。改修工事をして川幅を広げてからは氾濫することはなくなりました。

大雨が降った後は、上流から色々なものが流れて来ました。時には大池(ブックオフの奥にありました)から錦鯉が流れて来たりしました。当時は侍従川に鯉は住んでいなかったので珍しかったのです。ゴミが流されてきれいになった侍従川に入ってメダカやフナを獲るのも楽しみでした。千歳園の横に下水用の土管が埋まっていますが、その工事現場で友だちと大きなウナギを捕まえたことがあります。1週間くらい池に放して泥をはかせた後に、父にさばいてもらって蒲焼きを作ってもらって食べました。蒸さずに焼いたので堅かったのですが、始めて食べた蒲焼きの味は今でも忘れられません。

大道中学の裏山は、道が鎌倉の天園まで続いていて山菜の宝庫でした。春になるとウドやワラビ、ゼンマイ、タラの芽、野生のシイタケなどが採れました。採った山菜は、祖母に料理してもらってワラビ飯などにして食べました。大道中学の奥は深い谷になっていて茅やすすきが一面に生い茂った場所がありました。マムシがたくさんいたのでマムシ谷とも呼ばれていて、子どもが噛まれることもありました。そこでカエルを捕まえて、西大道にあった防火用水でカエルの水泳大会をやって遊びました。

大道中学の横の川は、今では蛍がたくさん住んでいますが、その頃は蛍はいませんでした。私が大道中学に通っていたときに、生物部が南川の田んぼから蛍の幼虫やカワニナをとって来て放しました。今の蛍は、その子孫かもしれません。上流の水源の近くの川底からは清水が湧き出していました。そこには透明な水生エビやゲンゴロウ、ハヤなどがいました。秋になると山から竹を切って、釣り竿にして関東学院の前あたりで、ハゼ釣りをやりました。餌は近くの土をほじくり返して捕まえたミミズです。釣ってきたハゼは昆布巻を作ってもらって食べました。竹といえば、八つ手の実を玉にした竹の鉄砲もよく作りました。上手にできた竹鉄砲を打つとパンと驚くほど大きな音がしました。

東京オリンピックが終わって日本経済の高度成長が始まったころから、山や谷が崩されて大道の地形が大きく変わって行きました。大道中学の谷戸も埋め立てられました。侍従川の改修工事も行われましたが、その頃から川が汚れてきました。最初に川の底が、気持ちの悪い昆布のような藻に覆われました。次にイトミミズやアカムシ(ユスリ蚊の幼虫)が増えました。川全体が悪臭を放って、生き物の姿が全く見えなった時期もありました。

そんな侍従川が本当にきれいになりました。下水道を整備したり、侍従会のメンバーや近隣の小学生による葦の植栽や清掃活動の効果がでてきたのだと思います。今では侍従川は緑に覆われ、ゲンジボタル、ハグロトンボ、クロメダカ、カルガモなどのたくさんの生き物が住むようになりました。

侍従川は照手姫伝説の時代から何百年も流れ続けています。これからもずっと枯れることはないでしょう。子どもたちが大人になった時に、侍従川で、こんな魚を捕ったとか、友だちとこんなことをして遊んだ、などの楽しい思い出を次の世代の子どもたちに語り継いでもらえたら良いなあ、と思っています。

4)私が子どもだった頃【ふるさと侍従川に親しむ会 長橋 輝明】

私は、1946(昭和21)年、横浜市鶴見区の東寺尾というところで生まれました。大道には1,2歳の頃に引っ越してきたようです。住まいは大道小学校の向かいあたりです。まだ小さいときだったので思い出はあまりないのですが、兄たちはここの思い出がたくさんあるようです。

昔は弟の面倒見も兄たちの役割の一部というような時代でしたから、弟の私をおんぶしながら遊んでいたようです。でも、おんぶしていると、「かけっこ」や。「おにごっこ」が出来ないので、そういう時は弟の私を木に縛ってから遊んだようです。

現在の住まいの六浦には3歳のころに引っ越ししてきました。遊んだのは裏山が中心だったと記憶しています。「かくれんぼ」や「ぼかんすいらい※」などで遊んだことをよく覚えています。その遊びのグループには必ずリーダーがいて、遊びやらなにやらを仕切る役割をしていました。

※「ぼかんすいらい」という遊び、多分「母艦・水雷」からきている名前だと想像されますが、2グループに分かれて、相手を捕まえるようなゲームです(水雷の役割)。基地は目立つ大きな木などが使われます(母艦の役割)。追いかけられた人が基地にもどると相手はその人を捕まえることが出来ないのです。

その当時はみんな、おこづかいなどはもらえる時代ではなかったので、柿、栗など季節の果物をとって食べたりしてました。とりに行く場所やとり方などはグループのリーダーが教えてくれるのです。遊びの場所や相手はいつでも自然でした。遠浅な乙舳(おっとも)海岸※の海水浴や潮干狩り、平潟湾での潮干狩りやはぜ釣りも楽しみのひとつでした。この頃の平潟湾では、この湾付近でとれた海苔を干している光景がたくさん見られました。いまではあまり見かけませんね。

※乙舳海岸:今は埋め立てられてしまい、埋め立て後は現在の「海の公園」になっています。

小学校高学年の夏はほとんど逗子の海岸で遊んでました。遠泳で、浪子不動から鎧摺(あぶずり)までよく泳いだものです。ここでもリーダーの役割は大きく、まだ泳げないメンバーは、鎧摺の港の出入り口の堤から投げられます。必死に泳いで、自然と泳げるようになる訳です。みんな、自然を相手に、そして仲間とともに遊んでいたのですね。

自然と遊んだりすることによって、自然の大切さも知ります。また、仲間と遊んだりすることによって、仲間でいることの楽しさ・仲間意識、その仲間本意の正義感、自分の欲求があっても時にはがまんや忍耐が必要であったりして、適切に自分をコントロールしながら対人的なスキルを持てるようにということを自然と学んでいたのでしょうね。

都市化が進んだ現在は、自然も遊び場も少なくなってきて、子どものグループそのものが作られなくなっていて、社会的な対人スキルを学ぶ機会も少なくなってしまっています。侍従会では友だちや違う世代のおじさんおばさんたちも一緒に、自然に触れながら楽しく活動をしていきたいと思いますね。すこしでも自然に触れながら対人スキルも学べれば幸いです。

3)私が子どもだった頃【ふるさと侍従川に親しむ会 相川 元治】

我が家は侍従川の岸辺にあり、そのロケーションからも川との深いかかわりを持っています。まず古い話ですが、明治の頃は我が家では船を利用して荷物の運搬をしていたようで、現在は侍従川の改修で姿を消してしまいましたが、侍従川の石垣には船着場の跡が残っていました。なぜこのように侍従川で船が利用できたのか今の方は疑問に思うかも知れませんが、大正12年の関東大震災で侍従川は80cmも隆起したと聞いていますので、今より水深も大分深く船の往来が出来たと思います。

その侍従川は、私の子どもの頃(昭和20年代)は本当に素晴らしい遊び場でした。現在の泥牛橋あたりは水草が生え、ハヤやフナがたくさん居ました。また侍従川は昭和40年代の改修前は川幅も今より4mも狭く護岸も全て石垣ではなく、土手のままのところも多くあり自然に恵まれていました。

我が家のあたりは先ほど述べましたように石垣で、その石垣の隙間にはうなぎがいたようです。うなぎの採り方は、うなぎ針という長い大きな釣り針に糸をつけ、50cmくらいの細い竹竿の先にその針を取り付け、針には餌としてミミズをつけ、石垣の隙間にその竿を差し込んで採っていたようです。残念ながら私は一度も釣れたことはありませんでしたが釣れた人もいました。

もう一つは「カイボリ」と呼んで石垣に対し「コの字形」に土や石で土手を作って囲み、水を堰き止め、囲った土手の中の水をバケツなどで掻い出すと、水の無くなった石垣の中からフナや泥鰌等が出てきてそれを捕ることが出来たのです。私は良く覚えていませんがカイボリの最大の目的は「メリュー」と呼んだうなぎの稚魚を捕ることだったそうで、沢山のメリューが捕れたようです。今だったらこのメリューは高く売れたかもしれませんが、池で飼ったりして自然消滅していたようです。

この他に私の一番の思い出は、我が家には叔父が作ってくれた2m強の木製の小船があり、それを上潮になると漕ぎ出して遊んだことです。下流に下って遠くは京急逗子線の鉄橋近くまで下って行くのです。川辺には多くのギャラリーが見ており子ども心にも得意だったようです。また上潮ですからイナ(鯔の子どもをイナと呼んでいます)が群れを作っていましたのでその群れに向かって手製のモリ(ヤス)を投げイナを捕ったことを覚えています。

その他に船には小型のライトを取り付け、暗くなった時のため明かりが点くようにしていました。とにもかくにも私が子どもの頃の侍従川は絶好の遊び場で、魚捕りや昆虫捕りの毎日で勉強はそっちのけの毎日を楽しく過ごしたことを思い出します。

2)私が子どもだった頃【ふるさと侍従川に親しむ会 副会長 中山 吉雄】

戦災にあい、私は州崎に5才のときに引っ越してきました。小学校時代の主な遊び場は、泥亀新田・姫の島(「じゆんてん」と呼んでいた)。姫の島は、島の左右に水門があり、干潮時には島より下流・上流どちら側も川に入れ、魚取りなどして遊べました。上流側ではゴカイを取り、平潟湾でハゼ釣りをして楽しみました。平潟側から対岸(柳町)を見ると、葦原が広がっていたと思います。

水門の内側にも葦原があり、大きな池がありました(地区センターの所)。池の左側は宮川、池の向こう側は畑、新田に向かって二本の水路があり、その先に水門、なかは水路が真っすぐのび、その左右は一面ハス田(金沢区役所・君ヶ崎近くまで)が広がり、夏にはハスの花が綺麗に咲いていました。水路には、ボラ・フナ・ウナギ・コイ・ハゼ・メダカ・カダヤシ・ザリガニなど多くの生き物がいて、毎日のように取りに行きました。カダヤシ(当時は、メダカと思っていました。)は卵で産まれるのではなく、稚魚で産まれたと記憶しています。

宮川の左側、ダイエーより先(京急金沢検車区・マンション)の所も一面葦原があり、ここではカモ猟をしていました。中学時代は、宮川の堤防を通って金沢中学校まで通学しました。台風で堤防が破壊すると大変、16号を通って行ったこともあります。釜利谷側、金沢中から手子神社・釜利谷南県住の所まで、ここも田と畑、緑いっぱいでした、称名寺にも遊びに行き、銀杏を拾いました。

裏山(坊主山)の山頂には八角堂があり、何時の事か入り口が壊され、荒らされ持ち去られたのでしょう、中には何もありませんでした。称名寺の山から行く先もわからぬまま、今の西柴町方向に山道を遊びまわったり、春には山百合の球根を取りに行きました。この辺も見渡す限り山、緑いっぱい。

また、釜利谷東、赤井より六国峠に、能見台跡〜円海山〜天園など友達と何度も行きました。六国峠から見た景色は、富岡西・栄区方面は山が連なっており、峠からは海も見えました。小学校の時、一度だけ近所の中学生1人と子ども6〜7人で、六国峠を通り鎌倉まで行き、長谷観音、大仏で遊び、鶴岡八幡宮に行き、帰りは朝比奈峠に。峠の途中でだんだん暗くなり始め、下りた時は薄暗く(誰も親に行く事を告げてなかった)、親たちは近所の子どもが誰もいないので心配で、外で待っていました。家に着いた時は暗くなり、全員怒られたことを思い出します。

そうそう、海にも行きました。今の海の公園は、当時は海。金沢海岸通りの町屋町辺りに松の木が何本も残っています。ここに砂浜があり、波打ち際でした。この海で、バケツ一杯アサリを何度も取りました。当時は有料で、掘っているとおじさんが徴収に来たものです。野島にも行きましたが、当時は野島橋がなく、渡し舟で渡った覚えがあります。子どもの頃は川や泥亀新田、海、緑の山々と今思えば素晴らしい自然の中で思い切り遊んでいました。

1)私が子どもだった頃【ふるさと侍従川に親しむ会 副会長 長野 政治】

昭和十年代を過ごした思い出です。私の生家は大道小学校のすぐ裏でした。周りは畑と田んぼばかりで、春から夏にかけてはカエルが鳴き、ホタルも飛び、太い青大将もいました。そして子どもの遊び場所は田んぼ道や畑道、そして当時は土手も低く入りやすかった侍従川でした。

侍従川ではウナギ釣りをして遊びました。当時の侍従川は石垣式で、ウナギの寝床となっていたのです。ウナギは細い竹棒に糸と針を付けた竿を石垣の穴の中に入れて釣ります。ウナギ釣りのプロの人が釣るのを見て、子どもなりに真似をしたのです。私もそうやってウナギを釣りました。他にも侍従川ではフナやハヤ、ハゼ、カニなどを採って遊びました。特にハゼは、自分の庭にある竹に糸と浮きと針を付けた即席の釣り竿を持って諏訪の橋に行き釣ったのを覚えています。釣ったハゼは持ち帰り天ぷらにして食べました。

しかし私たちの遊びはそれだけに留まりませんでした。私が遊び仲間としていたのは『戦争ゴッコ』です。お宮の回りや光伝寺の庭に行き、竹で作った刀で立ち合いをしたり、木の枝を鉄砲代わりにしたりしました。しかし度が過ぎ近所の雷鳴オヤジに叱られることも度々でした。

第二次大戦が始まると畑や田んぼが埋められました。山は火薬発破で崩され、杭木を置いて固定したレールをトロッコが走りました。今の大道小学校も一度埋めた所に建てられたのです。当時は平屋建てで学校としては使用されず軍が使っていました。そしてすぐ横には二階建ての工員寮が五棟も建てられました。

また、軍用道路もできました。道路用地は強制移動させられ、今の四号線である大道の他、西大道にも住宅ができました。私は西大道にできたお風呂屋に入浴に行った思い出があります。こうして山は削られ田んぼや畑も埋められ、私たちの遊び場もどんどんなくなっていきました。しかし、それでも私たちは僅かに残された自然の中で小屋造りや戦争ゴッコをして遊んだのでした。

高等科一年に上がり少し経つと学従動員として工場へ応援に行きました。日本製鋼所へ機械の作業の見習として、朝学校より歩いて行く毎日を過ごした記憶があります。そして昭和二十年八月十五日、終戦とともに学従動員も終了したのでした。

2010年3月1日月曜日

12)私が子どもだった頃 ふるさと侍従川に親しむ会顧問 廣瀬一雄

清流侍従川の思い出

廣瀬一雄

朝比奈峠を水源として、大道(だいどう)を縦断し、川(地名)、三艘(さんぞう)を通り平潟湾に注ぐ清流が侍従川 である。その昔、照手(てるて)という高貴な姫が盗賊に追われこの金沢の地で行方知れずになったとき、その乳母の侍従(じじゅう)という人が嘆きのあま り、この川に身を投じたという逸話から侍従川と付けられたという伝説がある。

侍従川は水が清く絶えたことがなく、お陰で大道は大変豊かな村であった。現在は大道中学校のバス停の近くにある、 岩に彫られた風化したお地蔵さんは鼻欠地蔵と言い、相州(今の鎌倉)と武州(今の金沢)の境に肥えた土地争いの仲裁役として建立されたが、争いがなかなか 絶えないのでお地蔵さんが見せしめに、自ら立派な鼻を欠いてしまったと言い伝えられている。

この川はうねうねと曲がりくねり、自然の水の流れそのままの姿をしており、両側は大名竹が生い茂り遠くからでも一 目で川であることがわかる。

川間のネコ柳が白銀色の芽を吹く頃になると侍従川にも春がくる。川の土手にはツクシ、タンポポ、スミレ、レンゲ、 ナズナなど色々な野草でおおわれる。川岸の竹薮ではウグイスが鳴き、セキレイ、カワセミ、カワラヒワ、アオジが飛び交い麦畑ではヒバリが鳴く。

六月になると田圃に水を入れるため大堰が作られる。この頃から川の水が減って子どもたちの川遊びの時期になる。大 堰の下の水たまりにはエビ、フナ、ハヤが沢山いて子どもたちはわれ先に網でとる。

川の下流ではかい堀りが始まる。これは水をせき止めて中の水をかい出して魚を捕る方法でウナギ、ドジョウがよくと れる。七月七夕がすぎ夏祭りが近づく頃、夜、川岸でホタル取りが始まる。夜露で足がびっしょりになる。

八月末頃、大池の水が抜かれる。池の中にはコイ、ウナギがいっぱいいて大人も子どもも夢中になって捕る。これは一 年に一度の楽しみな年中行事である。秋になって水が不要になると大堰が開けられ放水する。水の少なくなった川ではウナギ釣りが行われる。

十月頃、大潮になると諏訪の橋の上でハゼ釣りが行われる。10センチくらいのハゼがよく釣れる。このハゼは竹串に 刺して焼き、お正月の昆布巻用として保存する。チンチンカエズ(黒鯛の子)や白魚も海から上がってくる。秋も深まり稲刈りも終わる頃、雑木林に北風が吹き 抜ける頃、川岸には霜柱が立ち川面は薄氷におおわれて侍従川も冬支度に入る。

■耕さない田んぼ
廣瀬隆夫

耕さない田んぼというテレビ番組を見た。今まで、田んぼは、春に苗を植えて秋に収穫が終わると、水を抜き、機械を入れて耕していた。耕すと土がやわ らかくなり、稲の根が貼りやすくなるという理由からだ。しかし、ある人が普通の田んぼが不作だった冷夏のときにも、ちゃんと今まで通り、穂を付けている田 んぼがあったのに注目した。それがどんな田んぼかというと、お年寄がやっている田んぼであった。機械も無い、労働力も無い、ほったらかしの田んぼが意外な ことに冷害に強かった。

耕さない田んぼは、収穫が終わっても田んぼから水を抜かない。一年中、田んぼには水があることになる。すると、そこに生きものが湧いてくる。タニシ が来る、カエルが来る、トンボが来る、そして、鳥が来る。一つの生態系が形成される。田んぼが随分にぎやかになる。このような田んぼで作った稲は、耕した 田んぼに比べて太くて根がしっかり貼っているということだ。土が固いことがストレスになり、根や茎が丈夫になるというのだ。

この話、どこかで聞いたことがある。国を治めるのは、小魚を鍋に入れて煮るようなもの。煮えたか煮えたかと、箸でつついていると、姿が崩れて無残な 姿になる。魚料理をうまく作るには、何もぜず、放っておくに限る。これは、4000年も前の中国の賢者、老子の言葉だ。今の世の中を見渡すと、こんなこと が多いんじゃないか。無駄なことをやって、自分で仕事を増やして、結果的にうまくいかないこと。通る車の無い高速道路。無意味な護岸工事。大量に捨てられ る梱包材。見る人のいない深夜のテレビ番組。どれも無駄な努力が生んだ、無くてもさほど困らないものだ。何もやらないで、自然のままにしておいた方がうま くいくことも多いんじゃないか。

■木の根の話
廣瀬隆夫

加島祥造と言う人がいる。写真を見る限り、かなりの年配だ。80歳はすぎているだろう。洋服を着ていなければ白髪、髭、痩せた体は、かすみを食う仙 人のようだ。とにかく、争うことや人の前に出ることが嫌いで、戦争中は軍隊の生活に耐えきれず、自分の体を傷つけてまでして脱走を試みたということだ。若 い頃は、大学で英文学を教えていた。翻訳者でもあり、フォークナーの短編集など、何冊も訳書を出している。その仙人が今、何をやっているかと言うと、家族 から離れて一人で長野県の山奥の伊奈谷という田舎でテレビもない、新聞もないという生活を送っている。老人の特権である気ままを絵に描いたような生活ぶり だ。晴耕雨読、好きな本を読んだり、詩を書いたり水墨画を描いたりして心を遊ばせている。彼は、タオイストとしても有名でタオ=老子に関する著作を何冊も 出している。

その彼の話。山に生えている木々をみると、競い合うように上へ上へと伸びている。少しでも多くの光を求めて、隣の木を押しのけて葉っぱを広げている ように見える。ここにも、弱肉強食という自然の摂理が働いているというのが一般人の考えである。彼が言うには、木は人より遙にも長生きするのだから大変な 知恵を持っているはずだという。人類は、秦の始皇帝の時代から永遠のテーマである不老不死を追い求めてきた。始皇帝の命を受けて不老長寿の妙薬を求めて除 福は、日本まで来たという伝説もある。その始皇帝も60歳まで生きられなかったし、これだけ医学が発達した現在でさえ、100歳まで生き長らえる人はまれ である。

屋久島の縄文杉は樹齢6000年を超えると言われている。木は、けた違いの長生きだ。こんなに賢い木が、愚かな争いはやらないんじゃないかというの だ。木は大地にしっかり根をおろしている。地面を掘り返してみると、うまく隣の木の根に入り組んで隙間を縫って伸びているそうである。そこには、相手を蹴 落とそうとか、なきものにしようとかいう争いの痕跡は全くなく、相互に支えあう共生の仕組みが働いているように見える。自然は、強いものだけが生き残ると いう単純なものではなく、我々の知らないところで、もっと賢い共生の仕組みが動いているのかもしれない。

金沢八景考 

金沢八景考     平成16年11月14日 廣瀬隆夫

金沢八景という建物も地名もない。この辺の八つの景色についた名である。中国湖南省の瀟江(しょうこ う)と湘江(しょうこう)と呼ばれる川が合流して洞庭湖に注ぐあたりを”瀟湘(しょうしょう)”といい、この瀟湘八景の景色によく似ていることから付けら れたと言われている。三浦半島の付け根に位置し、隣に吉田兼行も学んだ金沢文庫、東には鎌倉への塩の道、朝比奈の切通し、西は自然の良港である平潟湾が広 がっている。かつては、隋からの船も寄港したようで、三艘の船が着いた場所として三艘の地名も残っている。中国からの貨物船にねずみ対策で飼っていた猫が 逃げ出してこの辺りに住みつき、金沢猫と呼ばれるようになったという話も伝わっている。千光寺というお寺には猫塚が残っていて船旅で死んだ猫を弔ったらし い。確かに今でも猫は多い。

風光明媚な金沢八景を写した広重の浮世絵のなどは、今の絵はがきのような役割をしていたものでかなり 流通していたようだ。裏手に九覧亭という見晴台がある金龍院や東屋という料亭が版元になっている。平潟落雁(ひらかたらくがん)、野島夕照(のじませき しょう)、乙艫帰帆(おっともきはん)、洲崎晴嵐(すざきせいらん)、小泉夜雨(こずみやう)、称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)、瀬戸秋月(せとしゅ うげつ)、内川暮雪(うちかわぼせつ)が金沢八景に付けられた名前だが、今も浮世絵と同じ景色が見られるのは、野島の遠景ぐらいだろう。

金沢八景は、鎌倉や江の島に行った帰りに立ち寄ったり、落語でも有名な大山参りの参詣客が泊まること が多かった。海が近いので、そこで捕れた鯛やヒラメを食べながら景色を楽しむという粋な遊びができたようだ。春は潮干狩り、夏は海水浴、秋は月見、冬は雪 見が楽しめた。能見台という高台からは、金沢八景が一望できた。そこには茶屋が出て旅人に饅頭をふるまった。その能見台に戦前まであった「筆捨ての松」が 写真で残っている。その名の由来は、昔、そこを訪れた絵師が八景の景色を描こうと絵筆を持ったが、あまりの美しさに自分の力量を悲観して、その松の根元に 筆を投げ捨ててしまったというものである。大正時代に台風で倒れて、戦時中には燃料の松油をとるという理由で根こそぎ掘り出されてしまった。今では、そこ には「金沢八景根元の地」という石碑だけが立っている。

旅行者に金沢八景のおすすめの景色を聞かれるて答えに窮する時がある。広重の浮世絵に魅せられてこの 地を訪れた人は、皆、落胆する。名勝、金沢八景は、実は古くから開発という名で土木工事が行われ、景色が大きく変わってしまった土地でもある。

古くは、江戸時代に新田開発を目的に埋め立てが行われた。永島泥亀という人がこの工事で莫大な財産を 築いた。今は野島に屋敷跡の門構えと蔵だけが残っている。八景の絵を見るとこの辺りは深い入り江になっていた。今は六浦という地名になっているところも昔 は湾になっていたらしい。昔の人は六浦のことを「むつら」と呼んでいた。文献によると、フグの口のような格好をしていたのでフグラがなまって「むつら」に なり六浦という漢字を当てたと言われている。潮が入るところが狭くなっているのでそこを塞げば容易に埋め立てができた。しかし、埋め立てられた土地は塩分 が多くて良い米は育たなかった。そこで、塩田にしたり、蓮田になった。私の小さいころには蓮田がかなり残っていて、アメリカザリガニを釣って遊んだ覚えが ある。塩場という地名はいろいろなところに残っている。

もう一つの大きな変化は、太平洋戦争である。近くの横須賀には軍港がある。金沢八景は、横浜市だが、 文化圏は完全に横須賀市だ。横須賀に物資を運ぶために道路が整備された。そのとき、琵琶島弁天から瀬戸神社への参道が寸断された。烏帽子岩は、軍事演習で 破壊された。野島には、戦闘機を隠すための巨大な横穴が掘られた。これらの工事には朝鮮の人が借り出されていたと聞いている。この辺は、軍事的に重要な場 所だったらしく、戦前、戦中の写真や地図はほとんどない。戦争という大義名分で短期間に地形が大きく変わってしまった。

最近の変化は、高度成長期の頃だろう。日本中が土地バブルに踊り日本列島改造論というあやしげな理論 がまかり通っていた時代である。金沢八景には、自然の砂浜がかなり残っていた。夏になると海の家が立ち並んだ。アサリやアオヤギの他に剣のようなマテ貝や タニシを大きくした形のスベタなどがたくさん捕れた。アオヤギは、すぐに口をあけてしまうので「バカ貝」と呼ばれていて持ち帰る人はいなかった。後年、寿 司屋のネタになったアオヤギを見て惜しいことをしたと後悔した覚えがある。その海岸線で大がかりな工事が始まった。人工島・八景島、新交通・シーサイドラ イン、それに海の公園である。金沢八景駅のホームから見える茅葺屋根の建物は、400年の歴史を持つ東照大権現(徳川家康)を祀った円通寺の客殿である が、ここも取り壊して駅を作る計画だったらしい。十年近くかかったこの工事で景観は一変した。海の公園という人口砂浜には、自然の貝はほとんどいなくなり (今のアサリは蒔いているもの)、海流が変わったのか、かつての生き物は数を減らし、夏には大量のワカメが流れ着いて異臭を放つようになった。

もし、広重の浮世絵の金沢八景が今でも残っていたらと思うことがある。天の橋立や松島に匹敵するくら いの観光地になっていたことだろう。世界遺産に残せるような場所だったのではないだろうか。同時にそこに住む人々の憩いの場として素晴らしい場所になって いたことだろう。最近、ヨーロッパでは、人間が変えてしまった地形を元に戻そうと言う自然再生運動が始まっている。勝手に川や海を埋め立てたり、山を崩し たりしたことで生態系が乱されて、逆に人間の生活に悪い影響を与え始めたというのである。自然の支配を始めた欧米人からこのような運動が始まったのは皮肉 なことである。和の精神を尊ぶ日本人は、自然とも長い間共存してきた。至る所に神がいて自然破壊をくい止めてきた。ある時、西から吹いてきた近代という風 がその神を吹き飛ばし、高度な土木技術で日本列島は安易に改造されていった。しかし、一度失ってしまった自然や景観はもう二度と蘇ることはない。人間は もっと自然に対して謙虚にならねばならない。

ふるさと侍従川に親しむ会の10周年記念イベント

■ふるさと侍従川に親しむ会の10周年記念イベント(2003年 11月16日)
廣瀬隆夫

先日、ふるさと侍従川に親しむ会(略称 侍従会)の10周年記念のイベントがあったのでスタッフとして参加した。午後の2時から始まって5時近くま で、侍従会への熱い思いが語られた。

この会は、自然を守りましょうというのでなく、自然を取り戻そうということを主眼においている。環境保護というと、野山にロープを張ってここに入る なとか、虫をとるな、とかうるさく言う人たちがいる。この会の人たちはそのようなことは言わない。頭だけで考えているのでなく、実際に体験を通して自然を 理解しているからだ。この会の最終的な目的は、侍従川を昔のように子供たちが遊べる川に戻そうということだ。エコロジーアップ、通称エコアップと言う運動 が全国各地でに行われている。屋上に水槽を置いてしばらくすると、空中に浮遊する茎藻類の種が水に落ちて、そこに藻が生えてくる。それを食べに昆虫が飛ん でくる。その虫を食べに鳥が来る。鳥の糞などで運ばれてカワニナ貝が増える。それを餌に蛍が集まる。と言うように、何をしなくても水槽の中に小さな生態系 が出来あがる。

侍従会は、このエコアップを10年間、大道で実践してきた。この侍従会は、トンボ池という池作りから始まった。大道小学校が出来る前は、このあたり は一面の田んぼだったらしい。その田んぼを埋めて学校を作った。昔は、運動会の時に雨が降ったりすると、埋め立てられた田んぼに住んでいたカエルの恨み だ、などと言う人もいた。また、学校の後ろに山を抱えており、その麓にある小さな井戸は、山から絞れる水が絶えない。かつては、物置小屋(石炭置き場) だったそうだが、そこに先生や生徒、住民が手弁当で協力して池を掘った。素人が集まって作ったのだからかなりの難事業であったらしいが、生徒の親御さんが ユンボを貸してくれたりして小さな水たまりがみんなの力で自然の池になった。何年かするとそこにトンボが来た。山からカエルも産卵のために降りてきた。メ ダカも増えた。そしてこの池はトンボ池と呼ばれるようになった。今では、子供たちがザリガニ釣りをやったり、トンボをとったり出来るようになった。

このトンボ池で増えたメダカが大雨の時に流れ出したのか、侍従川でメダカが増えていると言うことを子供たちがみつけた。そこで、侍従会は、フィール ドをトンボ池から侍従川に移した。池という点から侍従川という線に活動の場が広がったのである。侍従川は、一時、本当に汚れてしまった。川岸を歩くと悪臭 が漂っていた。県が定期的に川にシャベルカーを入れて川底のヘドロをさらっていたが、しばらくするとすぐに元の汚い川に戻ってしまうことの繰り返しだっ た。上流は3面コンクリートで固められてしまって、ほとんど生きもののいない、ただ汚水が流れているだけの下水道になってしまった。

侍従会は、ドブさらいをやめさせて、川を浄化させる目的で葦を植えた。自然の川に近づけるために川に石を置き、流れに変化をつけた。外科手術をする のでなく、自然の治癒力で川をよみがえらせようとしたのだ。しばらくすると、見違えるように水がきれいになった。水草が生えてきた。めだかや、はぜが戻っ てきた。それを追ってカワセミ、サギ類が飛来するようになった。最近は、カルガモが住みついて春になると親ガモに連れられた子ガモのほほえましい行列が見 れるようになった。

この会の特徴は、子供が中心と言うことだ。大人は、川の清掃や草刈をするなど、子供たちのサポート役だ。川の汚染状況や生物の分布などを小中学生の ジュニア探検クラブの会員が定期的に行っている。調査という大義明文があるので子供たちは、堂々と川の中に入って遊ぶことが出来る。網を持って魚を追いか けている子供たちの目はキラキラ輝いている。今回も彼らからの報告があった。ハキハキと発表する子、はにかんで後ろに隠れてしまう子など様々だがこれも個 性があって面白い。最後に、座談会形式で、今までの活動をふりかえった。結局、出席者の全員が侍従会への熱い思いを語ることになり予定の時間を大幅に過ぎ てしまった。