2011年3月6日日曜日

11)<私が子どもだった頃> 大道町内会 長島太郎

<私が子どもだった頃> 大道町内会 長島太郎

私の家は、宝樹院という真言宗のお寺の石段を降りたところにあります。そんな関係で「てらのした」という屋号で呼ばれています。大道では昔から、「わきのやと」とか、「みょうど」などの屋号で呼び合っていました。昔は、近所付き合いも今より盛んでしたし、同じ姓が多かったので、このように、あだ名のようなもので呼びあっていたのでしょう。

私は、大正5年に、大道に生まれました。これから、私が子どもだった頃の様子をお話したいと思います。今は、大道小学校や高舟小学校、六浦小学校などのたくさんの小学校がありますが、私が小さい頃は、この辺には、三分学校という学校しかありませんでした。三分学校は六浦の交番の近くの北辰神社の横の道をまっすぐ行って、侍従川を渡った右側にありました。私が小学1年に入学した年の9月に関東大震災という大きな地震がありまして、学校は、跡形もなく壊れてしまいました。三分学校に通っていた子どもたちは、宝樹院、上行寺、泥牛庵などのお寺に分かれて勉強を続けました。校舎が新しく建て替えられて、学校に通えるようになるまでに3年もかかりました。

そのころの金沢の地形は、今とはまるで違っていて、六浦から室の木にかけての場所や柳町のあたりは全て海で広い湾になっていました。その三分学校から東側の地域は、広い砂浜になっていまして、海の水が、ひたひたと押し寄せるような場所でした。上行寺の前の道路を渡ったところのコンビニの近くには、今では家がたくさん建っていますが、このあたりは、昔は砂浜で、塩を作る場所でした。今では、塩場住宅という地名になっています。今の国道16号のあたりは松林になっていて、そのあたりからずっと砂浜が続いていました。松林には鈴虫がたくさんいて、良く捕まえに行きました。この砂浜で、くみ上げた海水を舟に乗せて侍従川の上流に運び、それぞれの家の軒先で大きなナベで煮詰めて塩を作っていました。

侍従川は、葦や竹が生えた自然のままの川で、地面からすぐの所に水があり、今よりもだいぶ水量がありました。満潮の時には、山王橋のあたりまで、潮が上がってきました。かなり深くて、子どもたちが川に飛び込んで水遊びをすることも出来ました。侍従川は、田んぼに水を引いたり、生活用水に使われていただけでなく、いろいろな生活物資を運ぶ交通手段にも使われていました。私が最も印象に残っているのは、肥やし舟です。昔のトイレは、今のように水洗ではなく、便器の下に穴を掘って糞尿を溜めて、いっぱいになると、それをくみ上げるというような原始的なものでした。その糞尿を肥やしと言っていました。肥やし舟は、くみ上げた糞尿を上流の大道に運んでいました。大道には、広い耕地に畑や田んぼがありましたので、その肥料に使っていました。

今の大道郵便局のあたりに、大堰と呼ばれる大きな堰がありました。侍従川の渇水期に田んぼに水を入れるために板で川を、せき止めて堰を作ってありました。広さは5〜6メートル四方もあり、深さが2メートルもありました。そこで泳ぎの練習をやりました。大堰には、フナやどじょう、ウナギがたくさんいました。ウナギとりには、長い棒の先に餌の付いた糸をつないだ特別な道具を使いました。ウナギの棲んでいる穴のなかに餌と針を入れると、おもしろいように大きなウナギが釣れました。釣ったウナギは、家で料理してもらって食べました。また、侍従川にはホタルがたくさんいて、蚊帳の中にホタルを放して遊んだものです。

私の家の近くの堂山と呼ばれる山に洞窟が掘ってあり、その先に大きな縦穴がありました。最近は行っていませんが今でもあると思います。ハシゴを使わなければ下りれないほど深い穴で、底は6畳くらいの広さがありました。何のために掘られた穴なのかは分かりませんが、当時は、何にも使われていなくて子どもたちの遊び場になっていました。子どもたちは、この場所をそこめんと呼んでいました。当時、そこめんのあった堂山のまわりは、荒れ放題で、廃寺になった常福寺の墓石などが倒れて散乱していました。堂山の近所で、あまりに病人が続けて出るので、宝樹院の住職に頼んで供養してもらいました。墓石もきれいに直して、毎日、掃除をしました。それからは、病人が出ることもなくなりました。

宝樹院の階段を降りて車道に出る所に関所の跡がありました。今では、車庫になっていますが、私が小さな頃は、四角い窪地になっていて、関所の立て札が立っていました。昔は金沢から鎌倉に行く人たちからお金をとって、お寺の修繕などに使っていたと言われています。

若かった頃の話ですが、私は戦時中、技術者として横須賀海軍工廠という軍事工場に勤めていました。戦争が終わって階級社会から開放されたとき、初めて人間というものが見えました。人は本来誰でも平等で、それぞれが何かしらの得意分野を持っているのだと悟りました。前向きな気持ちで、その得意分野を伸ばすために努力をし、活かしていくことが大切だと思います。

大道は豊かな自然環境が今でもたくさん残っています。それが、この土地の人の特徴である穏やかな人格を作っていると思います。また、大道には関所跡があり、近くには金沢八景や金沢文庫の称名寺など多くの史跡があります。横浜というと都会的で賑やかなイメージがありますが、こういう静かな場所も横浜の中に残していきたいと思います。

10)≪私が子どもだった頃≫  ふるさと侍従川に親しむ会 会長 相川 澄夫

≪私が子どもだった頃≫  ふるさと侍従川に親しむ会 会長 相川 澄夫

昭和20年代から30年代が私の子ども時代でした。高舟台、湘南八景はまだ雑木山でしたし、ハードオフの谷戸は全部田んぼ、青木製作所の奥に高梨牧場がありその奥は田んぼさらに奥にため池がありました。大道中学の谷戸も全部田んぼで山際を細い水路が流れていました。南川の奥も田んぼでその奥に染谷という牧場があり山は雑木山でした。平潟湾は柳町もなく、花火大会が開かれたりしていました。

六浦中学は市大の中の旧兵舎を使っていて、関東学院も木造の旧海軍の建物のようでした。瀬戸には今のローズマンションのあたりに竜宮館というヘルスセンターのような温泉と宴会のできる施設ができました。野島は冬場になると海苔を干すだれが並び、路地はあさりの殻が敷き詰められ海には海苔ひびが立って、いなかの漁師町でした。

大道小の裏門のいまのココスのあたりにはベンケイガ二が護岸の鷹取石の隙間に無数にいて道路にまでゾロゾロといっぱい、はい出してきていました。白黒テレビが町内の床屋に入り力道山のプロレスや栃錦、若乃花、朝潮、吉葉山、などの相撲を何十人という人だかりで見たり、三輪自動車が走り、バスはボンネットバスで車掌さんが乗っていました。相武隧道の向こうは八軒谷戸の地名どおり八軒くらいの農家しかなく環状4号は未舗装のデコボコ道で、神奈中バスにのると穴ぼこの道で天井まで跳ね上がる位でした。

進駐軍をあちこちに見かけ、京急の六浦駅が木造ですぐ横に踏切ふみきりがありました。戦後の海外からの引揚者用の寮も5~6カ所あり空襲で焼けだされた人たちや戦後、台湾、満州、中国、朝鮮などからの引き上げてきた大勢の人たちがこのまちに生活するようになってきました。まさに『3丁目の夕日の時代、トトロの森の時代』でした。

大道小学校が学年8クラス約400名以上いて低学年のときは2部授業で、早番、遅番があり私たちにとっては遊ぶ時間がいくらでもありました。何をして遊んだか思い出しながら、四季に分けて書いてみました。

春は侍従川でめだか、ふな、どじょう、たんぼではおたまじゃくし、ザリガニを捕まえ、ザリガニの身でまたザリガニを釣り、麦の畑ではあおい麦の穂をとって中の実を噛んでチュウインガムだなんて言っていました。山に行ってはサクランボや桑の実を食べ、口の周りを紫色にして夕方家に帰ったものでした。

夏は町内にあった防火用水の水を消防団のおじさんたちが入れ替えて即席のプールをつくり、町内のガキ大将をはじめみんなが遊びました。暑い盛りになるとあちこちで赤痢がはやったり日本脳炎が発生したり、親たちには汚い川には絶対入って遊んではいけないと言われたものでした。確かに今思い出してみると、下水もなく生活排水のたれ流しの川だった侍従川は草ぼうぼうで、汚なく臭いどぶ川だった思います。

それでも隠れて川やたんぼに行ってカエルを捕まえて、おしりに麦の茎やストローを刺さしておもいっきり息を吹き込みカエルのお腹なかが風船みたいに膨らみパ-ンと破裂させたり、アカガエルの身は焼くとうまいと聞き、捕まえてたき火で焼いて食べたり、へびのしっぽを持ってぐるぐる振り回してみたり、トカゲのしっぽをちょん切ったり、毎日が新しい発見で楽しい体験でした。

今のスーパー横浜屋のところが大堰のところまで田んぼで、夜には蛍がいくらでも飛んでいて、うちわで叩くとおもしろいほど捕まえられ、家に持ち帰り蚊帳の中に放して遊んだりもしました。トンボどろと言っていたオニヤンマをとることが自慢だったり、セミ、かぶとむし、クワガタ、カミキリムシなど昆虫はいくらでも身の回りにいました。知り合いの若い衆が川の上流でトラックのバッテリーの電極を水の中に入れて魚を感電させてうなぎを捕まえていたのを見たこともありました。

秋には山ではあけび、栗もぎ 栗の渋をむいてコリコリした生の実を食べたり、民家の柿がたくさん実りどこの家の柿が渋いか甘柿かよく知っていました。秋の十五夜のお月見には、線路で電車に轢かせて平になった5寸くぎを竹の棒の先に着けたモリで、暗くなってからよその家のお月見のお団子やお供えの果物などそおっといただきに行き、ときには失敗して見つかってどなられたりスリル満点の遊びでした。

冬は12月も暮れが近くなると原っぱで凧揚に夢中でした。より高くながい時間飛ばせるか、こま回し、竹うま、など年長のガキ大将から教えてもらいました。めんこ、ビー玉、ベーゴマ、ちゃんばら、戦争ごっこ、等々、書いていると子どもの頃のあの子この子と顔や名前が浮かび、今は60から70歳になる皆がなつかしく思い出されます。