2013年6月8日土曜日

《私が子どもだった頃》川町内会 源波 修一郎

《私が子どもだった頃》川町内会 源波 修一郎

私は昭和19年に生まれ、昭和20年ころから40年以上、侍従川の近くの西大道で生活していました。20年くらい前に引っ越して、現在は六浦に住んでいます。これから、私の子どもの頃の思い出を書きたいと思います。

【侍従川は生きものがいっぱい】
昭和20年ころの侍従川の上流は、シミズガニやハヤ、山椒魚などが生息する清流でした。夏には、ゲンジボタルも多く飛んでおり、たくさん捕まえて蚊帳の中に放して楽しんだものです。今から思えば、ずいぶん風流な生活をしていたものだと思います。

侍従川は、蛇行していて護岸整備も十分でなく、自然の土手によって守られていたため、台風など大雨の時は、しばしば川が氾濫して床下浸水を起こしていました。西大道に大堰の水門があり田植えの時期にせき止めた時には、堰の上流の水たまりは水深2mほどとなり、水泳や木材や竹などで組んだイカダを浮かべて水遊びができました。しかし、現在のように下水道の整備ができておらず、生活雑排水をそのまま侍従川に流していたため、衛生的には良くなかったと思います。

また、堰の下流には滝壺のような深みがあり、夏には、ウナギやフナなどの夜釣りをして楽しみました。土手の穴にはウナギが潜んでいました。竹の棒にタコ糸と釣り針をつけて、ミミズを餌にして穴の奥まで差し込むとウナギが良く釣れました。天然のウナギなので、蒲焼きにすると大変おいしく、また、贅沢感を味わっていました。侍従川の周辺は田んぼが多く、現在の大道中学校も田んぼで、よく秋の稲刈り前にイナゴを取りに行き、甘露煮にして食べたものです。

【夜中の朝比奈切通の肝試しと鐘つき】毎年、大晦日になると友だちを連れ立って朝比奈の切通をカンテラをさげて、鎌倉の建長寺の鐘をつくために歩いて行きました。カンテラは、缶詰めの空き缶にローソクを立てて灯りとしたもので、今の懐中電灯のようなものです。夜の10時ごろに西大道を出発して12時過ぎに建長寺に到着しました。夜中の切通しは真っ暗で肝試しを兼ねていました。まだ朝比奈峠の道路が未整備でしたので、鎌倉に行くためには、逗子を回るか朝比奈の切通を通るしかありませんでした。除夜の鐘を突いたあとに、鎌倉八幡宮に初詣をして元旦を過ごしました。

【里山は子どもの遊び場】
子どものころは、学校から帰るとカバンを玄関に放り投げ、すぐさま野原にみんなが集まり、ソフトボールで日が暮れるまで泥んこになって遊びました。試合中に野原の近くの家にボールが飛び込んで、窓ガラスを割ったことがよくありました。その時は怒られましたが、どこかで許してくれた、おおらかな時代でした。

雑木山に隠れ家と称して、大きな木の中段に木や竹を蔓で組んだ山小屋ふうの建物を作り、蔓にぶら下がってターザンごっこで遊んだり、雑木をナイフで削って刀を作ったり、チャンバラごっこで遊んだりしました。また、竹藪から竹を取ってきて、竹馬や水鉄砲を作って遊んだり、正月用の門松を作ったりしました。

当時は、ご飯や煮物はかまどで煮炊きし、お風呂は五右衛門風呂でしたので、杉の葉や薪木を山から取ってきては、お小遣いをもらっていました。薪で炊くご飯のおこげは美味しくて、なつかしい思い出になっています。また、薪で沸かすお風呂は、お湯がやわらかく、体の芯まで温まりました。現代の温泉地にある露天風呂に入っているような気分でした。

【雑木林は山菜や果物の宝庫】
春は、侍従川の岸辺の土手や田んぼの畦には、セリ、ツクシ、ノビル、ヨモギなど香りの深い山菜を取り自然の春を感じていました。初夏は、山菜のゼンマイ、ワラビ、フキなどをたくさん採って、ご近所におすそ分けしたものです。
夏は、桑の実、木苺、サクランボなどがたくさんありました。今の鎌倉霊園のところに砲台山があり、周辺には山桜がいっぱい咲いてきれいでした。この桜が実をつけ紫色になると、弁当箱を持ってサクランボを取りに行き、口の中や服も紫色にし、帰ってからよく怒られました。砲台山は、地下には地下壕があり、子どもたちの格好の遊び場でした。

秋は、近くの山は山栗やアケビやカラスウリなどがいっぱいあり、ヒラタケやヒメジなどのキノコ狩りができました。山栗は、その場でイガと渋皮をむいて、茹でないで生でおやつとして食べました。アケビは、米びつの中へ入れて熟してから食べました。カラスウリは、足に塗ると、かけっこが速くなると言われていましたので、運動会の前にはよく取りにいきました。

初冬は、自然薯堀りに行き、笹で2、3本つつんで帰ることもありました。自然薯は土の中を深く根を張るように成長しているので、掘った穴の中に、頭を突っ込みながら芋を折らないように慎重に堀りました。大きな自然薯が完全に掘れると、達成感を味わえたものです。掘った穴に頭を突っ込むと、土の香りが何ともいえない温かみと癒しを与えてくれました。自然薯は麦とろろごはんが何と言っても一番おいしく、立派な自然薯は、お正月まで庭に埋めて保存しました。

【懐かしい人との出会い】
西大道に住んでいた昭和20年代は、今の金沢八景ー原宿線の道路はまだ総武隧道が開通したばかりで、砂利道を農家の高橋さんというおじさんが本郷から牛車に野菜をつんで売りに来ていました。今は公園になっていますが自宅前が広場でしたので、おじさんがそこで牛を休ませていました。牛は、のんびりと雑草をついばんでいました。

それから60年が経った現在、私が定年になってから、六浦の長生寺の壮年会に入り、鎌倉組の壮年会理事会の高橋理事長が前述の高橋さんというおじさんのご子息であることがわかりました。そう言われてみると、確かに父親の面影があります。西大道の昔の話をしているうちに、ご当人も牛車で子どもながら一緒に来ていたことが分かり、互いに懐かしい人との出会いに感激したものでした。

【おわりに】
侍従川を中心に私の子どものころは、自然豊かな中で、毎日サバイバルゲームをしているような時代であったと思います。近隣の雑木山や里山が開発され、私が子どもだった頃の自然環境を今の子どもたちが味わうべきもない姿になってしまった現在、せめて侍従川を昔の清流に甦えらせて、その名残を残してほしいと祈念しております。

2013年3月24日日曜日

≪私が子どもだった頃≫ 六浦3丁目在住高桑正敏


私が子どもだった頃 六浦3丁目在住高桑正敏

<侍従川への流れ>

私は団塊(だんかい) の世代のピーク、つまり1947年(昭和 22年)10月生である。いま住んでいる場所(六浦 3丁目)で産まれ、そこから居を移したのは新婚(しんこん) 時代の2〜3年間なので、生粋(きっすい) の「六浦っ子」に近い。昔は 1階(かい) 建てで狭(せま) かったが、両親と姉、祖 母、それに小学校低学年の頃までは父の弟も住んでいた。

この家は六浦小学校周辺とその北側に広がる谷(や) 戸(と) の当時新しい住宅地の一角(いっかく) にあり、西ヶ谷戸という小字名があった(しかし小学校に近い地域を六浦小学校裏と言っていた) 。幼(おさな) いころは西ヶ谷戸の住宅もまばらだったようで、自宅のすぐ前はまだ田んぼが残っていて、そこでホタル(たぶんヘイケボタル)を見た記憶がかすかにある。小学校に入る前には六浦保育園(長生寺に併設(へいせつ) されていたらしい)に通っていたが、その保育園はだいぶ前に廃園(はいえん) となった

西ヶ谷戸には北から南へと向かう川があった。源流の 1つは北西に位置する「お池」と呼ばれるため池から流れ出て、小さな川となって自宅のすぐ横を通り、小学校の西側と南側に沿って流れていた。北の源流は釜(かま) 利(り) 谷(や) ・白山道へと続くトンネル付近からで、六浦白山道線沿いに流れ、ほどなく西南へと向きを変え、「お池」からの川に合流した。この 2本とは別に、東の3〜4ヶ所からも小さな流れが出ていて、その北側の一部は小学校の北側で「お池」からの川に注いでいたようであり、また南側の一部は小学校の東側を通って、正門近くで西側の「お池」からの川と合流した。ここから少し流量を増して長生寺の下を通り、原宿六浦線を越えてそのまま南へと向かい、侍従川にそそぎこんでいた。もちろんこれらの流れはすべて、とうの昔に暗渠(あんきょ) と化(か) してしまい、いまでは面影(おもかげ) すらない。この川は、侍従川の支流(しりゅう) としては決して小さくないので、あるいは支流名もあったかもしれないが、残念ながら記憶にない。

<西ヶ谷戸の原風景>

西ヶ谷戸をぐるりと囲(かこ) む馬蹄型(ばていがた) の丘は、子どもたちにとってはまるで城壁(じょうへき) か山脈のようだった。いま思えば低い丘だが、やや傾斜(けいしゃ) が急だったためか、ほとんどが雑(ぞう) 木林(きばやし) となっていて、そこを越えてよその地域へと行くのは気が引けた。とくに「お池」から登る西方面の丘(現在の高舟台)は山が深く、尾根沿いに小径は続いていたはずだが、小学生の頃は深入りした記憶がない。丘の中で名前が付いていたのは、南東端に位置する「おいせ山」だけで、この地ではシンボル的なイメージをもっていた。ここに登れば、眼下 の侍従川から平潟湾と野島、緑豊かな鷹取山(たかとりやま) 、そして東京湾の向こうに房総(ぼうそう) 半島(はんとう) の山々も見えた。

谷戸の中でのシンボルは「お池」であった。三方を雑木林の丘に囲まれたため池で、周囲は50〜60mほどだっただろうか。北側には小さな谷があり、そこだけはスギ植林地(しょくりんち) となっており、ごく小さな流れが走って「お池」に注いでいた。池の東半分は崖状(がけじょう) だったが、西半分は緩やかなエコトーン状態になっていた。ここにはフナとコイがすんでいて、大人も子どももみなで釣りを楽しんだものである。もちろん「お池」はめ立てられ、そのすぐ北側は八景台という住宅地に開発された。周辺の地形はすっかり変わってしまい、いまではそれこそ見る影もない。

「お池」の東南端からは水が流れ落ちていて、前述したように自宅の脇を通過していた。この小さな流れにも中小のフナがすんでいて、ハグロトンボも見られた。私の家から池までは直線距離でせいぜい 170mほどの短さだったが、その流域(というほど広くないが)は田んぼや畑が広がり、家はまばらで、いま思えば里地的(さとちてき) なイメージを感じる。このネコの額(ひたい) ほどに狭(せま) い流域も、子どもたちの遊び場であった。

<自然の中での遊び>

小学生の頃の遊びにはいろいろなものがあった。外での遊びだけでも、虫捕り、釣り、相(す) 撲(う) (も) 、カン蹴(け) り、竹馬、木登り、メンコ、ビー玉、ベーゴマなどなど。とにかく、同世代の子どもが多かったこともあってか、学校から帰るとわれ先に遊び場に集まって騒(さわ) いだものである。

西ヶ谷戸を囲む丘は、私有地でもほとんどどこにでも入れた。自分たちだけの秘密の小屋も造った。クズ?の垂れ下がった蔓(つる) を使ってターザンごっこも流(は) 行(や) った。長いネザサを切ってきては釣り竿(ざお) にしたり、棒代わりにした。マダケかモウソウチクも切って竹馬の材料としたが、これは叱(しか) られないようにこっそりとやったかもしれない。ヤマノイモもどこにでも生育(せいいく) していて、晩秋〜冬季には山(やま) 芋(いも) 掘(ほ) りもけっこう盛んだった。秋の味覚としてク
リとアケビも重要だった。

東の丘の上には戦時中に造られたらしい四角いプールがあった。もちろん泳ぐためのものではないどころか、周囲すべてをコンクリートで固められていて、危険ゆえ遊泳は禁じられていた。有(ゆ) 刺(し) (う) 鉄線で囲まれていたが、当時の悪ガキ連中は夏になると、当たり前のように有刺鉄線の隙間から入り込み、そこで泳いでいた(多くはパンツもつけない状態=フルチンと言った)。私は泳げなかったが、ギンヤンマがお回りしていたので、それを捕えるべくよく通った。あるとき、網を振った勢いでプール内に転落した。幸いにして、みなが水遊びに興(きょう) じていたときであり、年長の者に助けられたが、親に知られるとこっぴどく怒られるので、着物が完全に乾くまでフルチンでいた思い出がなつかしい。

「お池」での釣りはフナやコイだけではない。大きなメダカも多く、私はこれを釣るのが得意だった。浮きの直後にフナ用の小さな針をつけ、水面に投じると、メダカがこの餌(えさ) に食いつく。しかし口が小さいので針はかからない。それゆえうまく引き寄せ、瞬時(しゅんじ) に餌に食いついたままのメダカを釣り上げる。また、すでにアメリカザリガニが大繁殖していて、この釣りもよく行った。。網で捕まえたアメリカザリガニの腹を胸部から千切り、硬い甲羅をはがしたものを餌に、真っ赤になった大きな個体(マッカチンと呼んだ)を狙うのである。針は使わず、また糸はテグスでなく木綿糸でも十分だった。

平潟湾での海釣りも盛んだった。ハゼ狙ねらいであるが、まれにカレイもかかった。私が好んだのは、金沢八景駅近くの弁天島からの釣りである。ここでもメダカ釣りの技術がモノを言った。なにしろ海水がキレイなので、水中にいるハゼが見えるのである。金沢八景の景色が本当に八景だった頃である。

<昆虫採集>

もちろん昆虫を捕えることも男子の“仕事”だった。当時は捕(ほ) 虫網(ちゅうあみ) といった高級?なものは市販されておらず、せいぜい駄菓子屋で魚採り用の口径(こうけい) の小さなものを使っていた。それでギンヤンマを狙(ねら) うのである。「お池」の水際をお回りするオスを狙ったり、上空を飛ぶ個体めがけて小石を放り投げ、餌(えさ) と勘違(かんちが) いして小石を追って急降下(きゅうこうか) する個体を捕まえた。ギンヤンマのオスは子どもたちにとって人気者だった。

私だけはチョウ採り専用の網をもっていて、みなにうらやましがられていた。親が太い針金で枠(わく) を作り、それにスカーフの生地で縫ってもらった網を通してくれたのである。もっとも、スカーフ生地では目が細かすぎて、勢いよく振ってしまうと、風圧でチョウが入らなかった。ただし網の問題もあってか、子どもたちにはチョウはそれほど人気がなかった。

道具としては、セミ採り用のものもあった。針金で直径 10〜15cmの輪を作り、それを竹の先に取りつけ、コガネグモやジョロウグモの巣を巻きつけたものである。けっこうネバネバしていてよく採れたが、何度も使っているうちに粘(ねば) り気がなくなり、ミンミンゼミのように勢いのよい個体は手元に引き寄せる前に逃げられてしまう。ほかにニイニイゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシは多かったが、クマゼミだけはきわめて稀(まれ) で、それこそ一夏に 1回か2回の鳴き声を聞く程度であった。私はクマゼミを捕えたことがなく、級友が自慢げに持ってきた標本(ひょうほん) がうらやましかった(侍従川近辺で採集したものかどうかは知らない)。

カブトムシとクワガタも人気者だった。夏休みになると、早起きして丘に行き、自分たちの持ち場を見て回った。当時のクワガタの人気者は大型のミヤマクワガタで、ノコギリクワガタは分布していなかった( 1990年代にはミヤマクワガタはほとんどいなくなり、逆にノコギリクワガタが見つかった)。カブトムシとクワガタ採りは日没直後のほうが効率(こうりつ) よいが、当時はだれも夜に探しにいかなかった。おそらく夜は恐怖(きょうふ) 心(しん) があるのと、親が出歩くのを許してくれなかったせいだろう。捕えたものはスイカの食べかすを餌(えさ) として与えていた。

当時の樹液(じゅえき) は、圧倒的(あっとうてき) にクヌギがよかった。燃料はまだまだ薪(たきぎ) や炭が主体だったので、西ヶ谷戸の丘でもどこかしらで伐採がなされていた。このため若い雑木林が健在(けんざい) であり、クヌギも樹液の出るほどよい太さだった(直径 15cmを超えるとシロスジカミキリによる樹液は出ない)。それゆえ樹液ポイントはたくさんあった。

<オオムラサキはいたか?>

日本の国(こく) 蝶(ちょう) であるオオムラサキは神奈川県のほぼ全域(ぜんいき) に分布していた(現在では相模川以東ではほぼ絶滅(ぜつめつ) )が、例外的(れいがいてき) に箱根火山ではごく一部に限られ、また三浦半島も分布していない。では、横浜市金沢区ではどうかと言うと、少なくとも円海山周辺には生息(せいそく) していた(私自身が1970年頃に幼虫を採集している)。過去の文献(ぶんけん) をひもとけば、鎌倉市十二所や神武寺〜鷹取山の記録が出てくる。これらの地域は円海山からの山続きでもあるので、過去に生息していた可能性は十分にある。ただ、円海山方面からたまたま飛(ひ) 来(い) (ら) した個体の可能性もないではない。こうした状況(じょうきょう) を考えるなら、分布しているかいないかの境界は、どうやら侍従川周辺にあったと考えてよいだろう。

では、西ヶ谷戸ではどうだっただろうか?小学生からのチョウ好きであった私にとっては、もちろんオオムラサキは憧(あこが) れの的(まと) だった。しかし、影すらも見かけたことがなかった。ところが中学生のとき、「おいせ山」でオオムラサキを採ったという鼻高々(はなたかだか) の級友が現れた。私は驚(おどろ) き騒(さわ) いだが、標本(ひょうほん) を見せてと言ううちに、「じつは逃げられた」という。彼は間違いないと主張したが、ほら吹きの気がある奴だったので、子ども心にも100%の信用を置くべきでないと感じた。そもそも、私自身が幼少の頃から何度も足を運んだ西ヶ谷戸周辺の丘、それも足しげく通った「おいせ山」に、オオムラサキが生息していたとは考えにくい(ちょっと自信過剰(かじょう) かな?)。

<なつかしの植物たち>

植物の中では、丘でヤマユリを探しては各自の庭に持ち帰った。花をたくさん付ける年数を経た個体が人気だったが、そうしたものは崖上(がけうえ) など危険で入れない場所以外では採り尽くされた感があった。珍(めずら) しいものではシランがあった。子どもにはそれほど人気がなかったように思うが、当時すでに2〜3か所でしか見かけなかった。その中で、白山道へのトンネルの崖上に群生(ぐんせい) していたものが最後まで残り(採集できないゆえ)、白花の個体も交えていたので目を楽しませてくれた。トンネルの改修(かいしゅう) 工事のためだろうか、残念ながらだいぶ前からその姿がない。もしかすると自然状態のものは、侍従川流域全体としてもほとんど絶滅(ぜつめつ) 危(き) 惧(ぐ) 状態(じょうたい) になっているのかもしれない。民 家の庭に植えられている姿を見るにつけ、複雑(ふくざつ) な思いにとらわれてしまう。

当時はまた、シュンランはじめエビネ、キンラン、ギンランなどのラン科植物、それにカントウカンアオイも多かった。エビネやシュンランなどはそれこそどの雑(ぞう) 木林(きばやし) でも普通に生育(せいいく) していた。山野草ブームもまだまだ下火だったのであろう。

いまでは防災上の観点(かんてん) から、崖面(がけめん) のほとんどはコンクリートやフリーフレームで覆(おお) われている。しかし、小学生や中学生のころは、どこにでも露頭があった。その露頭を調べるといろいろな貝化石が見つかったものであるが、崖面に好んで生育する植物、とくにコモチシダやオニヤブソテツ、ホウライシダ、タチシノブなど各種のシダ植物で覆われていた。ホウライシダは外来生物だが、金沢八景周辺にはとくに多く、当時すでにどの崖面や石垣(いしがき) にも密生(みっせい) していた。

<六浦小学校の受難>

私が通っていた六浦小学校は、2度にわたって大きな被害を受けた。3年生のときだったか、横浜市立大学の北隣(きたどなり) にあった東洋化工の工場が轟音(ごうおん) とともに爆発(ばくはつ) し、爆風(ばくふう) で校舎(こうしゃ) の窓ガラスのほとんどが割(わ) れた。ちょうど授業中で、舞(ま) い上がった埃(ほこり) のために一瞬(いっしゅん) にして教室内が煙幕状(えんまくじょう) になった。顔や頭から血を出していた者もいた。訳のわからぬまま校庭に避難し、それから連(つ) れだって大道小学校に向かった記憶がある。私は額(ひたい) から少し血が出ていた程度 ですんだが、重傷(じゅうしょう) を負(お) った級友(きゅうゆう) もいた。自宅もまた窓ガラスが飛び散って悲惨な状況(じょうきょう) だったが、不幸中(ふこうちゅう) の幸(さいわ) いと言うか、祖(そ) 母(ぼ) が顔をちょっと怪我しただけですんだ。死者も出たことであり、新聞やテレビでトップニュースになった。

大学生のとき?には校舎が火事に遭(あ) った。私はたまたま家にいて、その様子を見に行った。昼間の火事ではあったが、真っユーラシア大陸北部で繁殖し、冬になる赤に高く上がる炎(ほのお) は恐(おそ) ろしい光景(こうけい) であった。木造(もくぞう) 2階(かい) 建(だ) てであったためにほとんど全焼(ぜんしょう) してしまったが、これこそ幸いと言うか、ようやく新しい校舎となった。人的(じんてき) な被 害はなかったと思うが、隣接(りんせつ) する養鶏場(ようけいじょう) にも燃(も) え広がって、たくさんのニワトリが犠牲となったらしい。

<西ヶ谷戸の外の思い出>

小学校でも評判だったというほど昆虫少年の私は、西ヶ谷戸の外に出ることはあまりなかった。人にはお茶ら気者に映(うつ) ったらしいが、じつは内気な性格(せいかく) だったので、自分の域外(いきがい) に出ることをためらったのかもしれない。

西ヶ谷戸からトンネルの向こう(現在の釜利谷南や釜利谷東)は、宮川の1支流(しりゅう) を伴(ともな) う細長(ほそなが) い谷戸となる。ここは小学生の頃は一面に水田が広がっていたが、時代を追うごとに畑が増え、建物も立つようになった。水田は「農薬につき立入禁止」のような立札(たてふだ) があったので、相当(そうとう) に強い農薬がまかれていたのだろう。遊んだのは主に川の中で、手子神社付近までがテリトリーだった。ここにはウナギもすんでいた。

宮川は谷津町方面からの川と合流し、平潟湾に注ぐ。このあたりは小学生の頃までは泥(で) 亀(き) (い) 新田(しんでん) と呼ばれる広大な湿地で、水田やハス田、ヨシ原が広がっていた。ベッコウトンボもいたという。自宅からは遠かったが、何回か歩いて行った。しかし、中学生になった頃からは大規模(だいきぼ) に埋(う) め立てられ、最後まで残った金沢高校(私の母校)と横浜市立大学前の湿地も、高校入学時( 1963年)には工事のために立ち入り禁止となってしまった。高校の生物部で泥亀新田のちゃんとした調査をしようと思っていたので、ひどく落胆(らくたん) したことを鮮明(せんめい) に覚えている。風光(ふうこう) 明媚な場所として知られていた金沢八景の、「八景」が次々と失(うしな) われていった頃でもある。

侍従川流域(りゅういき) に戻(もど) ろう。朝比奈付近から現在の釜利谷西方面は、それこそ西ヶ谷戸にすむ小学生にとっては山奥(やまおく) だった。せいぜい遠足?で朝比奈切通しを歩いたくらいであったと思う。ただし、中学 2年の冬からはたびたび山に入るようになった。六浦中学校に平沢愛三という副校長が赴(ふ) 任(ん) (に) し、私にシダ植物を指導してくれたので、昆虫が見られなくなる晩秋(ばんしゅう) から早春(そうしゅん) にかけてはシダ調査に熱中し、金沢区南部から横須賀市・葉山町一帯の山々を歩くことになったからである。ただ、池子との境は鉄条網(てつじょうもう) が張(は) り巡(めぐ) らされていたし、中に入ると軍犬が襲(おそ) うというウワサを聞いていたので、中学生になっても鉄条網沿 いの道を歩くにも怖かった思いがある。

間近に見える鷹取山も、頻繁(ひんぱん) に訪(おとず) れるようになったのは中学生以 降である。最初に訪れたのは小学生高学年のときである。神武寺駅から登ったが、境内(けいだい) の茶店のおばさんに寄(よ) っていくように誘(さそ) われ、何を食べたか記憶にないが、とにかく帰りの電車賃(ちん) がなくなって、泣きたい気持ちで歩いて帰った。

<おわりに>

私事だが、小学校 2年生のときに交通事故に遭(あ) って頭を強打した(ぶつけた車のフロントが凹(へこ) んだ)。そのせいだろうか、幼(おさな) い頃の記憶がおぼつかない。もし私の思い込みや勘違(かんちが) いで記したことがあったらご容赦(ようしゃ) いただきたい。もっとも今は60も半ばなので、近い過去すらも忘れ去ってしまうことが多い。余計なことまで言えば、老練になったせいか、都合の悪いことはなおさらである。

2013年3月22日金曜日

【私が子どもだった頃】 金沢区寺前出身 関東雄


【私が子どもだった頃】 金沢区寺前出身 関東雄
私は、昭和22年寺前東町(寺前2丁目)で生まれ、子ども時代を過ごしました。私の小さい頃は、乙とも海岸と呼ばれた小柴から平潟湾口まで、松林がきれいな自然の海岸線が残っていて海水浴のメッカでした。現在金沢の花火大会は、毎年8月の最後の土曜日に海の公園で行われますが、当時は平潟湾内で行われていました。大輪の打ち上げ花火の後は、仕掛け花火もあり、お馴染みの金鳥蚊取り線香やナイアガラの滝がエンディングでした。洲崎町の平潟湾沿いの瀬戸神社近くに武蔵屋という和菓子屋さんがありました。酒まんじゅうと八景せんべいが名物でした。八景せんべいは二つ折りの味噌せんべいで、せんべいの一つ一つに八景の焼き印が押されていました。老舗の和菓子屋でしたが今はありません。毎年その武蔵屋の2階に親戚等が集まり、目の前で打ち上げられる花火を見るのが楽しみでした。

私の通っていた文庫小学校の近くに、当時、八景園というホテルがありました。部屋の一部は、横須賀米軍の高級将校の家族の宿舎にもなっており、私たちは時々敷地内に侵入しては、米人の子ども達と喧嘩をしてました。彼等はすぐにナイフを振り回すので、すぐに逃げました。また、ゴルフの練習場があり、敷地外に落ちているボールを拾って届けると1球に付き、いくらかの小遣い稼ぎにもなりました。この八景園は、もともと大橋新太郎の別荘で後に西武鉄道が大遊園地構想のために買い取りました。大橋新太郎は今の共同印刷の前身である博文館のオーナーで泥亀新田を買い取り金沢文庫の再建にも貢献した人物で、金沢を語るときに欠かせない有力者の一人です。大金持ちのダイヤモンドにつられて恋人の貫一を裏切り、それを知った貫一に熱海の海岸の松ノ木の下でお宮が足蹴にされる尾崎紅葉の金色夜叉の話は有名ですが、その大金持ちとお宮のモデルが、大橋新太郎とその妻です。

乙とも海岸が埋め立てられる前の話ですが、40年程昔の夏の夜に海の中をアセチレンランプを持った人たちで大賑わいになった時期がありました。カーバイドに水を入れて光らせるアセチレンランプは、懐中電灯より遥かに明るくて縁日の屋台等でも使用していたのです。 毎晩の様にモリをタモ竿の後ろにつけたた道具と、ランプを持って海の中を夜中まで歩き回っていました。ワタリガニ、カレイ、芝エビなどその日によって収穫できるものが違います。芝エビが採れる頃は、私たち家族が全員で参加しました。ランプの光で目が赤く光るえびを追い掛けると海面に浮上してジャンプします。そのタイミングでタモを上からかぶせて捕まえるのですが、えびを追い掛ける人たちの声で海は大騒ぎでした。私の学生時代は、小柴の底引き網でタイラガイやホタテ、ミル貝などが捕れていました。それらの貝は、江戸前の高級貝として市場には出さず、直接料亭に卸していたそうです。漁港には、東京の高級料亭からの仕立て便のトラックが毎朝列をなしていたそうです。運転手は自前の出刃包丁を持参して、漁港で手に入る新鮮な魚介類をその場で刺身にして食べていたということです。シャコもたくさん捕れていたころで、シャコは腐りやすいので船からあげるとその場で茹でていました。

小さい頃は、ホンチ遊びをよくやりました。春先から5月いっぱいの間マサキやツツジの葉の上によく見かけられるのが、ネコハエトリ蜘蛛、通称ホンチです。昭和30年頃、このオスを捕まえて育て戦わせる遊びが横浜南部を中心に大ブームになりました。マッチ箱大で中箱が2つに仕切られ、観察用のガラス板が添付されていた飼育箱を購入し、エサを与えて大切に育てます。このホンチを飼う箱は、近くの駄菓子屋に売っていました。小さな板の上に乗せてどちらかが逃げ出すまで戦わせるのですが、前足2本を二刀流の剣の様に振りかざして組合う戦い方が格好よくて夢中になりました。バラの葉にいるバラポンと称するホンチが一番強いと言われ、頭に白い模様がついたカンタは別種の様で、すぐに相手を殺してしまうため反則扱いでした。ホンチとは別に、木の根元等から地中に巣を作るジグモもまた良き遊び相手でした。地上に飛び出ている袋の端を静かに引き上げ、底にいるのを捕まえます。ジグモの戦いは牙を相手の腹に突き刺す殺し合いで、育てる楽しみもなく、あまり人気はありませんでした。(ホンチの写真を挿入)

私は、現在は保土ケ谷に住んでいて、月に何回か実家のある金沢に通う身ですが、この歴史と自然のある金沢が大好きです。金沢の自然と文化によって育てられた子ども時代の楽しい思い出は宝物です。今は平安時代からその名勝がたたえられた金沢八景の面影はなくなってしまいましたが、残された海岸や湾、島、侍従川などの自然や歴史的な史跡は他の町に負けません。これからも金沢の自然や文化を大切に守り育てて、たくさんの楽しい思い出を育んでください。大人になってから、きっとすばらしい財産になりますよ。

***おまけ***
【机の上のハンティング】
私が京橋の事務所に通っていた頃のお話です。小さな雑居ビルで下の階に焼き鳥屋が入っていることもあり、よくゴキブリがはい回っていました。ある日、仕事をしている机の上の書類近くに、その嫌らしい虫が近づいて来たので払おうとすると、書類の山の上の方に蜘蛛がいて、その虫を狙っていることに気づきました。ハエトリ蜘蛛のハンティングです。仕事も忘れて、そのハンティングに見入ってしまいました。

体調2センチ程の小さなゴキブリですが、その蜘蛛にとっては数倍の大きさ。距離は獲物の進行方向上部斜め前方約30センチ、相手の前進に合わせて少しずつその距離を詰めていきます。獲物はゆっくり歩きながら警戒のため立ち止まります。ハンターは、相手をうかがいながら、その間5センチになるまでツツーと距離を縮めていきます。獲物が通り過ぎたその瞬間、後部から飛びつき剣を刺して、しっかりと獲物を抱え込むとあっという間に引き揚げたのです。その間10分程、ハンティングの邪魔にならないよう身じろぎもできませんでした。目の前の机の上で行われた狩りを体験しました。こんな所にも弱肉強食の厳しい世界があることに驚かされました。

家の中でも、よく蜘蛛を見かけます。でも、その姿形がグロテスクなので嫌いな人って多いですね。ホンチは小さくてかわいいのですが、家の天井などを這っている体長10センチもある通称イエグモ(アシダカ蜘蛛)は、大きくて気持ちが悪く嫌われています。所々に抜け殻が落ちていたり、ほうきなどで叩くと足がとれて残っていたりして・・・。でも彼らはゴキブリをエサにしている益虫なんです。(人間が勝手に決めた益虫、害虫という言葉は、好きではないのですが・・・。)注意して観察してみると身の回りにいる蜘蛛たちも一生懸命生きていることに気づかされます。

私が子どもだった頃 西大道町内会 藤田啓次


私が子どもだった頃

                   西大道町内会 藤田啓次

私は昭和16年に横須賀の船越で生まれました。国が防空壕を掘るというので家が立ち退きに遭い、父親が海軍工廠に勤めていた関係で3歳の頃ここに引っ越してきました。車のない時代でしたから、船越から乳母車に乗ってきたと聞いています。一番上の兄は九州で特攻隊の飛行機の整備員をやっていました。次男は、浜松から満州に渡った後に終戦になり、ソ連の捕虜になりシベリアに3年くらい抑留されました。その兄が外国から帰ってくるというので、お土産を期待して、大道小学校の先まで迎えに行ったのですが、帰って来た時の兄の姿は、乞食のようでガッカリしました。

私たちが引っ越して来た時は、田んぼが、かなり残っていました。田んぼには、自噴式の井戸があり孟宗竹の筒からジャージャー水が吹き出していました。今から考えると上総堀りで掘った井戸だったと思います。私の家のすぐ近くに侍従川が流れていますが、横浜屋の方向に川が曲がる手前の一段低くなったところに水門がありました。渇水期に田んぼに水をひくために水を溜めてあったのです。横浜屋の隣は今は駐車場ですが、その頃は田んぼで、そこまでU字溝で侍従川の水をひいていました。三浦屋の方にも水路が引いてありました。川幅は、今と変わりませんが深さは子どもが潜ってしまうくらいありました。そこには、たくさんの生き物が棲んでいて、夏になるとヘビと一緒に泳ぐような感じでした。水門を開けた時には、うなぎ、フナ、ドジョウが沢山捕れました。場合によっては石で流れをせき止めて、カイボリをやってフナなどを捕まえることもありました。私たちの遊び場は上流で、中流や下流には行きませんでした。侍従川は、台風シーズンになると溢れることがありました。私の家の床上まで水は来ませんでしたが、床下浸水はよくありました。

西大道には、防火用水がたくさんありました。私の家のまわりにも3つくらいありました。深さが1メートルもありましたので、夏になるとそこでも泳ぐことも出来ました。冬になると侍従川で捕まえたフナを逃がして飼っていました。その防火用水は、年に一度、水を抜いて近隣の人たちが掃除をしていました。その時は、水道も4軒に1個の協同水道で、その水を一晩入れておくと大体一杯になりました。この防火用水は、消火栓の代わりに爆弾が落ちた時にすぐ消せるように海軍工廠が作ったもののようです。

私たちは西大道から朝比奈にかけての山でよく遊びました。ツルを使ってターザンごっこをしたり、お正月になると門松を取りに行ったりしました。竹を取って竹馬なんかも作って遊びました。正月になると凧揚げも良くやりました。凧揚げに夢中になって肥だめに落っこちたこともありました。凧は電、線がないところを狙って、近くのは畑から朝比奈に向かって西向きに飛ばしていました。近くに凧の名人がいて、飛ばなくなると持って行って調整してもらっていました。

ベーゴマ、メンコ、ビー玉も良くやりました。ベーゴマは桶を逆さにして、そこにケンパス布を敷いて戦わせる場所をこしらえました。ケンパスでは、布の目に入ってしまうとベーゴマが動かなくなってしまうことがあるので、家にあったゴムのカッパを使うこともありました。遊びに夢中になってカッパに穴を開けてよく怒られました。

夏のお祭りになると各町内からお神輿が出ました。けんか神輿ではありませんが、町内のお神輿が小競り合いをやっていました。追浜のナタギリからも来ていて、そのお神輿が古くて一番良いものでした。西大道には屋台がありませんので、東大道の屋台に乗り込んで、ひょっとこの面をかぶって踊ったり、太鼓を叩いたりしていました。

朝比奈との交流は少なかったのですが、お百姓さんがリヤカーで野菜を売りに来ていました。相武隧道の先の本郷からも来ていました。私が中学生になる頃まで来ていました。朝比奈の野菜を食べて育ちましたが、私は、大麦を炒って挽いた粉に砂糖をまぶしてお湯でこねた、麦こがしという食べ物が好きでした。

大晦日の夜の10時ころになるとになると、朝比奈峠を越えて鎌倉の八幡様まで歩いて初詣に行きました。夜の朝比奈峠は恐かったですね。その頃は鎌倉霊園の所は、本物の砲台が置かれた砲台山で、今のような整備された道はありませんでした。東京湾からアメリカ軍のB29が攻めて来ると砲台山の高射砲で防戦しました。私の家のまわりにも高射砲の薬莢がバラバラと落ちてくることがありました。砲台山になる前は、逗子の財閥の人が古い仏像などをコレクションして飾っておくような場所だったようです。今でも、鎌倉霊園に行くとお宮さんのようなものが残っていますが、それが名残です。終戦後は、その砲台山の地下に掘られた地下壕でよく遊びました。鎌倉霊園が出来たのは、昭和40年代になってからです。

朝比奈峠の頂上を越して熊野神社への分かれ道の先の右側に平らな土地がありますが、そこに番屋がありました。人が住んでいなくて、廃墟になっていましたので、私たちはお化け屋敷と呼んでいました。池もありました。その辺りに門がありました。昔は朝比奈峠を歩く人を検問していたのでしょう。また、朝比奈峠を越して大刀洗の方に曲がる道の左側に立派な三重塔が残っていました。

六浦駅のところから久木のあたりまで、今はバラ線になっていますが、山の尾根伝いに万年塀がずっとありました。青い色をしていたので、私たちは青壁と呼んでいました。塀を隔てた池子側には米軍の兵隊が鉄砲を持って巡回していました。池子の森は、人が入らないので良い自然薯が沢山あったそうです。朝比奈を中心にプロの芋掘りたちが山に入っていましたが、ここだけは聖域でした。

今の青木製作所の奥には高梨牧場があって牛を飼っていました。そこにも自噴式の大きな井戸があって、段々になったプールのようなコンクリの水槽に水を溜めていました。その水槽で金属製の入り口が丸い大きな容器に入った搾り立ての牛乳を冷やしていました。その牛乳を一升瓶を持って買いに行かされました。

環状4号線は砂利道で所々がコンクリで固めたような道でした。でも、私が中学の頃にはバスが走っていました。バスと言っても煙突から煙を吐き出しながら走る木炭バスでした。発展途上国の写真にあるようにバスの後に人がぶら下がって乗るような状態でした。兄の話を聞くと、船越から金沢八景に泳ぎに行く時は、国道16号線を通るのではなくて海の方を歩いて行っていたようです。その頃は、横浜の三渓園から杉田、富岡、文庫、八景は海水浴場として賑わっていました。杉田までは、キリンビールの工場がある生麦から市電が通っていました。川崎大師に行く線が京浜急行、日の出町のトンネルを境に横須賀側が湘南電車でした。その後、全ての線が京浜急行になりました。

私は、大道小学校の10期の卒業生ですが、当時の校舎は、木造で六浦小学校の分校のような感じでした。今、井戸掘りをやっている辺りに用務員室や食堂があり、給食では米軍が配給した脱脂粉乳を良く飲まされました。衛生状態が悪く、当時の小学生はみんな虱を持っていましたので、駆除のためにDDTの白い粉を背中や頭にかけられていました。野菜の肥料は、化学肥料でなく人糞でしたので、回虫駆除のために、ひまし油を下剤として飲まされました。きたない話ですが、20センチもある長い回虫が肛門から出てくることもありました。栄養状態が良くなかったのでクジラの脂で作った不味い肝油も飲まされました。その頃は、7組くらいあって、ひとクラス60人くらいの生徒がいました。それでも教室が足りなくて、二部授業にしたり、近くの寮を借りたりしていました。

大道小学校の運動会は盛大でした。西大道、大道、川、南川、三双など町内ごとに応援席が別れていて、町内対抗別のリレーがあり、小学校高学年、20代、30代、40代の選手を町内ごとに出して競ってい大変な盛り上がりでした。

六浦中学は、大道小学校よりさらに生徒が多くて10組を越えていました。その頃、六浦中学は、金沢八景の横浜市立大学のキャンパスの中にありました。当時の六浦中学の近くには東急車両、爆発があった東洋化工などがありましたが、当時は海軍の施設があったので地下にケーブルが埋設されていて電柱はほとんどありませんでした。その地下ケーブルのトンネルにもぐって遊んでいたところを先生に見つかって、よく怒られました。

今は、学校の教育について、親が学校の先生に文句を言うことが多いようです。私たちが育てた子どもが親になってやっているので、大きなことは言えませんが、それは少し考え違いをしているのではないかと思います。本来、子どもは学校が育てるのではなく、親が育てるものだと思います。細かい勉強は学校の先生に教えてもらう必要がありますが、普通の生活をするための基本的な考え方や躾などは親がきちんと教えるべきです。私なんか、悪いことをして、学校の先生に怒られたことを親に言うと、「お前が悪いんだ」と、また、怒られるので家に帰っても何も言いませんでした。

また、鉛筆削りが悪いとは思いませんが、いざとなったらナイフで削れるくらいのことは、子どものうちに身につけてもらいたいと思います。ナイフで指を傷つけても落としてしまうわけではないのですから、刃物の扱いを誤ると痛くて血が出ることくらいのことは経験させておいた方が良いと思います。勉強は、いくつになっても、やろうと思えばできますが、子ども時代にみんなと遊ぶこと、色々な体験をすることは、その時にしかできません。勉強ばかりして家の中にひきこもっているのではなく、侍従川で魚をとったり、海の公園で泳いだりして、多少のことではへこたれない、たくましい子どもに育って欲しいと思います。

私が子どもだった頃 川町内会 小泉元久


私が子どもだった頃           川町内会 小泉元久

私は、大正12年に侍従川の近くで生まれました。家は、侍従橋より50メートルほど川下の侍従川に面したところです。以前、白梅保育園をやっていましたので、そちらをご存知の方が多いかと思います。私が小学生の頃は、白梅公園を取り巻くように畑があり、六浦の消防署より南側は一面の田んぼで、その中を京浜急行が逗子に向かって走っていました。まだ、六浦駅はなく、郵便局のあたりに1軒だけ家があったのを覚えています。

昔は、義務教育が小学校まででしたので、近所の子どもたちが集まって遊べるのは、小学校の6年間でした。私たちがよく遊んだところは高橋から下流で、大道まで遠征していくことはありませんでした。私の家より少し下流で三艘川と侍従川が合流していますが、川遊びの中心は、この三艘川でした。三艘川は流れが穏やかで、上流に家がなかったため水がきれいで魚が豊富でした。小学2、3年になると川に入って友だちとフナやハヤを追いかけて遊びました。

大道の子どもたちは、侍従川の上流でカイボリをしてウナギを捕ったと侍従会の会報に書いてありましたが、私は、その様な経験はありませんでした。季節の良いときには家から川に下りてゴカイとかイソメを掘り起こして釣り餌の準備をして、侍従川で釣りをしました。獲物はなんと言ってもハゼで、そのハゼを、その後、自分でどうしたという記憶がありませんので、ただ釣れたときの感覚がおもしろくてやっていたのだと思います。9月のお彼岸の前に捕ったハゼは干してもカビが生えると言われていました。彼岸が過ぎてからのハゼは形が良く、大きいものは祖母が手を尽くして乾燥して保存し、正月の昆布巻きにしてくれました。

また、家にボートがありましたので、満ち潮のとき兄と平場湾の方に出かけて釣りをしたこともあります。その頃の地形は今とはずいぶん違ったものでした。柳町のあたりは海で、野島は平潟町と地続きになっていました。野島橋や夕照橋はありませんでした。瀬ヶ崎の先端の室の木と野島の間は渡し舟がありました。平潟湾には研究用として牡蠣棚があって、そこに魚がよりつくと言うのでボートでよく釣りに行きました。しかし、釣り糸が牡蠣の貝殻に絡みついたり切られたりして困ったことがありました。

魚釣りをして、たくさん釣れたのは、ウナギの子どものメリュウという稚魚でした。糸に絡まって外すのが大変でした。また、頭に角があってぬるぬるするネズッポと言っていたメゴチや餌どろぼうのフグは私たち子どもにとってはどうしようもない獲物でした。メゴチが、てんぷら屋さんの良い材料になるということは、ずいぶん後になって知りました。

当時、子ども心に不思議に思っていたことはボラの子のイナのことです。イナは上げ潮のとき今でも群れをなして侍従川に上がってきますが、そのイナを釣ったり獲ったりしている場面を見たことも聞いたこともありませんでした。逃げ足の速い魚であったことと、食べても美味しくないということで、魚としてあまり評価されていなかったのかもしれません。

ハゼで昆布巻きを作ってくれた明治3年(1870)生まれの祖母の話によりますと、金沢・六浦は、お嫁に来た頃は三方山に囲まれていたということでした。横浜、横須賀、逗子、鎌倉のどの方面に行くのにも山道で、六浦は陸の孤島のような場所でした。しかし、それゆえ風光明媚な風景が残る静かな村だったようです。鎌倉時代に開通した朝比奈峠を通って鎌倉に出る道が唯一の道らしい道でした。陸路はそのような状況でしたが波静かな平潟湾がありましたので、船による交通は発達していたようです。今から100年も前の話ですが、祖母は富岡から舟に乗って六浦に着き、侍従川を上って嫁入りしたと聞いています。現在の人にはとても想像が出来ないことでしょう。

その頃は、小学校も少なく、私の同級生の中には室の木や瀬ヶ崎から歩いて六浦小学校に通っていた生徒もいました。小学校のI、2年生にとって、これだけ長い距離を徒歩で通学することは、雨の日などは大変だっただろうなと思います。時代を重ねるに従って、景色や私たちの生活は、ずいぶん変わりましたが、子どもたちの旺盛な好奇心に変わりはないと思います。平成の子どもたちも、侍従川で思う存分遊んで色々な経験をしてもらいたいと思います。

私が子どもだった頃 安斎純雄


私が子どもだった頃

安斎純雄 (元・東京都職員)

今は空き地になっている大道一丁目15-16番地の県営住宅に移り住んだのは昭和26年、私が3歳の時でした。30軒の新しい住宅には、私たちのような団塊の世代を中心に子どもが沢山いて、一日中にぎやかに遊び回っていました。

小学生になると、高宗(今の高舟)から流れてくる浅い農業用水路で、メダカ、エビ、ヤゴを捕まえたりしました。道路脇の岩窪には、サワガニもいて、夏にはトンボ捕りに夢中になりました。住宅地を回り込んだ用水路が合流する付近の侍従川は、浅めで小さな子でも川岸に下りることができました。そこで、うなぎの稚魚がたくさん群れていたこともありました。

当時の侍従川は溢れやすく、この付近は、大雨と深夜の満潮とが重なって住宅数件が床上浸水の被害を受けたことがありました。濡れた家財を乾かしている光景は今でもよく憶えています。

高学年になると、カブトムシが集まるクヌギの木を探し当てたり、青木製作所の裏山の大池へフナ釣りに行き、カメを釣ったこともありました。当時、廃墟だった鎌倉霊園のお堂の地下壕を探検したり、六浦駅の近くの友達と徒歩で逗子の海まで往復したこともありました。

中学は1年間、六浦中学校に通いました。校庭脇の侍従川は、干潮時は川底のヘドロが臭う川になっていました。大道分校に移り大道中学校の3年生になると、部活動が始まり生物部の顧問の先生が、三年の男子3人を葉山の立石海岸の磯の観察に連れて行ってくれました。綺麗な海で潮が引いた磯には、八景の海では見られない色鮮やかな小魚や貝類がとても珍しいかったです。

このような楽しい経験から大学は水産学部に進みました。魚や海の好きな仲間の集まるクラブに所属し、安房小湊の実習場には度々潜りに行きました。大学祭では大きなビニールシートに砂を敷き岩を配置して4畳半くらいの潮溜まりを再現し、磯の生き物や綺麗な小魚を放して楽しんでもらったりもしました。

その頃読んだ津田松苗著「汚水生物学」には、水の汚れ具合に応じ、多様な微生物が棲みつき、汚れを食べて水を浄化してくれる。これを上手に応用することで、元の清流に戻すことができる、という仕組みが書かれていました。高校の科学部で、横須賀の平作川の水質調査をした経験からも水質汚濁の改善に関心を持つようになり、水質検査職員として東京都に就職しました。東京都では多摩川の浄化のプロジェクトにも参画しました。

4年前に東京都を定年退職し、現在は、神奈川県秦野市に住んでおります。秦野の湧水群が市内に点在するなど水の汚れと無縁の土地柄も何かの御縁と思いながら、名水巡りの市内散策などをして、のんびりと暮らしております。