2013年6月8日土曜日
《私が子どもだった頃》川町内会 源波 修一郎
私は昭和19年に生まれ、昭和20年ころから40年以上、侍従川の近くの西大道で生活していました。20年くらい前に引っ越して、現在は六浦に住んでいます。これから、私の子どもの頃の思い出を書きたいと思います。
【侍従川は生きものがいっぱい】
昭和20年ころの侍従川の上流は、シミズガニやハヤ、山椒魚などが生息する清流でした。夏には、ゲンジボタルも多く飛んでおり、たくさん捕まえて蚊帳の中に放して楽しんだものです。今から思えば、ずいぶん風流な生活をしていたものだと思います。
侍従川は、蛇行していて護岸整備も十分でなく、自然の土手によって守られていたため、台風など大雨の時は、しばしば川が氾濫して床下浸水を起こしていました。西大道に大堰の水門があり田植えの時期にせき止めた時には、堰の上流の水たまりは水深2mほどとなり、水泳や木材や竹などで組んだイカダを浮かべて水遊びができました。しかし、現在のように下水道の整備ができておらず、生活雑排水をそのまま侍従川に流していたため、衛生的には良くなかったと思います。
また、堰の下流には滝壺のような深みがあり、夏には、ウナギやフナなどの夜釣りをして楽しみました。土手の穴にはウナギが潜んでいました。竹の棒にタコ糸と釣り針をつけて、ミミズを餌にして穴の奥まで差し込むとウナギが良く釣れました。天然のウナギなので、蒲焼きにすると大変おいしく、また、贅沢感を味わっていました。侍従川の周辺は田んぼが多く、現在の大道中学校も田んぼで、よく秋の稲刈り前にイナゴを取りに行き、甘露煮にして食べたものです。
【夜中の朝比奈切通の肝試しと鐘つき】毎年、大晦日になると友だちを連れ立って朝比奈の切通をカンテラをさげて、鎌倉の建長寺の鐘をつくために歩いて行きました。カンテラは、缶詰めの空き缶にローソクを立てて灯りとしたもので、今の懐中電灯のようなものです。夜の10時ごろに西大道を出発して12時過ぎに建長寺に到着しました。夜中の切通しは真っ暗で肝試しを兼ねていました。まだ朝比奈峠の道路が未整備でしたので、鎌倉に行くためには、逗子を回るか朝比奈の切通を通るしかありませんでした。除夜の鐘を突いたあとに、鎌倉八幡宮に初詣をして元旦を過ごしました。
【里山は子どもの遊び場】
子どものころは、学校から帰るとカバンを玄関に放り投げ、すぐさま野原にみんなが集まり、ソフトボールで日が暮れるまで泥んこになって遊びました。試合中に野原の近くの家にボールが飛び込んで、窓ガラスを割ったことがよくありました。その時は怒られましたが、どこかで許してくれた、おおらかな時代でした。
雑木山に隠れ家と称して、大きな木の中段に木や竹を蔓で組んだ山小屋ふうの建物を作り、蔓にぶら下がってターザンごっこで遊んだり、雑木をナイフで削って刀を作ったり、チャンバラごっこで遊んだりしました。また、竹藪から竹を取ってきて、竹馬や水鉄砲を作って遊んだり、正月用の門松を作ったりしました。
当時は、ご飯や煮物はかまどで煮炊きし、お風呂は五右衛門風呂でしたので、杉の葉や薪木を山から取ってきては、お小遣いをもらっていました。薪で炊くご飯のおこげは美味しくて、なつかしい思い出になっています。また、薪で沸かすお風呂は、お湯がやわらかく、体の芯まで温まりました。現代の温泉地にある露天風呂に入っているような気分でした。
【雑木林は山菜や果物の宝庫】
春は、侍従川の岸辺の土手や田んぼの畦には、セリ、ツクシ、ノビル、ヨモギなど香りの深い山菜を取り自然の春を感じていました。初夏は、山菜のゼンマイ、ワラビ、フキなどをたくさん採って、ご近所におすそ分けしたものです。
夏は、桑の実、木苺、サクランボなどがたくさんありました。今の鎌倉霊園のところに砲台山があり、周辺には山桜がいっぱい咲いてきれいでした。この桜が実をつけ紫色になると、弁当箱を持ってサクランボを取りに行き、口の中や服も紫色にし、帰ってからよく怒られました。砲台山は、地下には地下壕があり、子どもたちの格好の遊び場でした。
秋は、近くの山は山栗やアケビやカラスウリなどがいっぱいあり、ヒラタケやヒメジなどのキノコ狩りができました。山栗は、その場でイガと渋皮をむいて、茹でないで生でおやつとして食べました。アケビは、米びつの中へ入れて熟してから食べました。カラスウリは、足に塗ると、かけっこが速くなると言われていましたので、運動会の前にはよく取りにいきました。
初冬は、自然薯堀りに行き、笹で2、3本つつんで帰ることもありました。自然薯は土の中を深く根を張るように成長しているので、掘った穴の中に、頭を突っ込みながら芋を折らないように慎重に堀りました。大きな自然薯が完全に掘れると、達成感を味わえたものです。掘った穴に頭を突っ込むと、土の香りが何ともいえない温かみと癒しを与えてくれました。自然薯は麦とろろごはんが何と言っても一番おいしく、立派な自然薯は、お正月まで庭に埋めて保存しました。
【懐かしい人との出会い】
西大道に住んでいた昭和20年代は、今の金沢八景ー原宿線の道路はまだ総武隧道が開通したばかりで、砂利道を農家の高橋さんというおじさんが本郷から牛車に野菜をつんで売りに来ていました。今は公園になっていますが自宅前が広場でしたので、おじさんがそこで牛を休ませていました。牛は、のんびりと雑草をついばんでいました。
それから60年が経った現在、私が定年になってから、六浦の長生寺の壮年会に入り、鎌倉組の壮年会理事会の高橋理事長が前述の高橋さんというおじさんのご子息であることがわかりました。そう言われてみると、確かに父親の面影があります。西大道の昔の話をしているうちに、ご当人も牛車で子どもながら一緒に来ていたことが分かり、互いに懐かしい人との出会いに感激したものでした。
【おわりに】
侍従川を中心に私の子どものころは、自然豊かな中で、毎日サバイバルゲームをしているような時代であったと思います。近隣の雑木山や里山が開発され、私が子どもだった頃の自然環境を今の子どもたちが味わうべきもない姿になってしまった現在、せめて侍従川を昔の清流に甦えらせて、その名残を残してほしいと祈念しております。
2013年3月24日日曜日
≪私が子どもだった頃≫ 六浦3丁目在住高桑正敏
私が子どもだった頃 六浦3丁目在住高桑正敏
<侍従川への流れ>
私は団塊(だんかい) の世代のピーク、つまり1947年(昭和 22年)10月生である。いま住んでいる場所(六浦 3丁目)で産まれ、そこから居を移したのは新婚(しんこん) 時代の2〜3年間なので、生粋(きっすい) の「六浦っ子」に近い。昔は 1階(かい) 建てで狭(せま) かったが、両親と姉、祖 母、それに小学校低学年の頃までは父の弟も住んでいた。
この家は六浦小学校周辺とその北側に広がる谷(や) 戸(と) の当時新しい住宅地の一角(いっかく) にあり、西ヶ谷戸という小字名があった(しかし小学校に近い地域を六浦小学校裏と言っていた) 。幼(おさな) いころは西ヶ谷戸の住宅もまばらだったようで、自宅のすぐ前はまだ田んぼが残っていて、そこでホタル(たぶんヘイケボタル)を見た記憶がかすかにある。小学校に入る前には六浦保育園(長生寺に併設(へいせつ) されていたらしい)に通っていたが、その保育園はだいぶ前に廃園(はいえん) となった
西ヶ谷戸には北から南へと向かう川があった。源流の 1つは北西に位置する「お池」と呼ばれるため池から流れ出て、小さな川となって自宅のすぐ横を通り、小学校の西側と南側に沿って流れていた。北の源流は釜(かま) 利(り) 谷(や) ・白山道へと続くトンネル付近からで、六浦白山道線沿いに流れ、ほどなく西南へと向きを変え、「お池」からの川に合流した。この 2本とは別に、東の3〜4ヶ所からも小さな流れが出ていて、その北側の一部は小学校の北側で「お池」からの川に注いでいたようであり、また南側の一部は小学校の東側を通って、正門近くで西側の「お池」からの川と合流した。ここから少し流量を増して長生寺の下を通り、原宿六浦線を越えてそのまま南へと向かい、侍従川にそそぎこんでいた。もちろんこれらの流れはすべて、とうの昔に暗渠(あんきょ) と化(か) してしまい、いまでは面影(おもかげ) すらない。この川は、侍従川の支流(しりゅう) としては決して小さくないので、あるいは支流名もあったかもしれないが、残念ながら記憶にない。
<西ヶ谷戸の原風景>
西ヶ谷戸をぐるりと囲(かこ) む馬蹄型(ばていがた) の丘は、子どもたちにとってはまるで城壁(じょうへき) か山脈のようだった。いま思えば低い丘だが、やや傾斜(けいしゃ) が急だったためか、ほとんどが雑(ぞう) 木林(きばやし) となっていて、そこを越えてよその地域へと行くのは気が引けた。とくに「お池」から登る西方面の丘(現在の高舟台)は山が深く、尾根沿いに小径は続いていたはずだが、小学生の頃は深入りした記憶がない。丘の中で名前が付いていたのは、南東端に位置する「おいせ山」だけで、この地ではシンボル的なイメージをもっていた。ここに登れば、眼下 の侍従川から平潟湾と野島、緑豊かな鷹取山(たかとりやま) 、そして東京湾の向こうに房総(ぼうそう) 半島(はんとう) の山々も見えた。
谷戸の中でのシンボルは「お池」であった。三方を雑木林の丘に囲まれたため池で、周囲は50〜60mほどだっただろうか。北側には小さな谷があり、そこだけはスギ植林地(しょくりんち) となっており、ごく小さな流れが走って「お池」に注いでいた。池の東半分は崖状(がけじょう) だったが、西半分は緩やかなエコトーン状態になっていた。ここにはフナとコイがすんでいて、大人も子どももみなで釣りを楽しんだものである。もちろん「お池」はめ立てられ、そのすぐ北側は八景台という住宅地に開発された。周辺の地形はすっかり変わってしまい、いまではそれこそ見る影もない。
「お池」の東南端からは水が流れ落ちていて、前述したように自宅の脇を通過していた。この小さな流れにも中小のフナがすんでいて、ハグロトンボも見られた。私の家から池までは直線距離でせいぜい 170mほどの短さだったが、その流域(というほど広くないが)は田んぼや畑が広がり、家はまばらで、いま思えば里地的(さとちてき) なイメージを感じる。このネコの額(ひたい) ほどに狭(せま) い流域も、子どもたちの遊び場であった。
<自然の中での遊び>
小学生の頃の遊びにはいろいろなものがあった。外での遊びだけでも、虫捕り、釣り、相(す) 撲(う) (も) 、カン蹴(け) り、竹馬、木登り、メンコ、ビー玉、ベーゴマなどなど。とにかく、同世代の子どもが多かったこともあってか、学校から帰るとわれ先に遊び場に集まって騒(さわ) いだものである。
西ヶ谷戸を囲む丘は、私有地でもほとんどどこにでも入れた。自分たちだけの秘密の小屋も造った。クズ?の垂れ下がった蔓(つる) を使ってターザンごっこも流(は) 行(や) った。長いネザサを切ってきては釣り竿(ざお) にしたり、棒代わりにした。マダケかモウソウチクも切って竹馬の材料としたが、これは叱(しか) られないようにこっそりとやったかもしれない。ヤマノイモもどこにでも生育(せいいく) していて、晩秋〜冬季には山(やま) 芋(いも) 掘(ほ) りもけっこう盛んだった。秋の味覚としてク
リとアケビも重要だった。
東の丘の上には戦時中に造られたらしい四角いプールがあった。もちろん泳ぐためのものではないどころか、周囲すべてをコンクリートで固められていて、危険ゆえ遊泳は禁じられていた。有(ゆ) 刺(し) (う) 鉄線で囲まれていたが、当時の悪ガキ連中は夏になると、当たり前のように有刺鉄線の隙間から入り込み、そこで泳いでいた(多くはパンツもつけない状態=フルチンと言った)。私は泳げなかったが、ギンヤンマがお回りしていたので、それを捕えるべくよく通った。あるとき、網を振った勢いでプール内に転落した。幸いにして、みなが水遊びに興(きょう) じていたときであり、年長の者に助けられたが、親に知られるとこっぴどく怒られるので、着物が完全に乾くまでフルチンでいた思い出がなつかしい。
「お池」での釣りはフナやコイだけではない。大きなメダカも多く、私はこれを釣るのが得意だった。浮きの直後にフナ用の小さな針をつけ、水面に投じると、メダカがこの餌(えさ) に食いつく。しかし口が小さいので針はかからない。それゆえうまく引き寄せ、瞬時(しゅんじ) に餌に食いついたままのメダカを釣り上げる。また、すでにアメリカザリガニが大繁殖していて、この釣りもよく行った。。網で捕まえたアメリカザリガニの腹を胸部から千切り、硬い甲羅をはがしたものを餌に、真っ赤になった大きな個体(マッカチンと呼んだ)を狙うのである。針は使わず、また糸はテグスでなく木綿糸でも十分だった。
平潟湾での海釣りも盛んだった。ハゼ狙ねらいであるが、まれにカレイもかかった。私が好んだのは、金沢八景駅近くの弁天島からの釣りである。ここでもメダカ釣りの技術がモノを言った。なにしろ海水がキレイなので、水中にいるハゼが見えるのである。金沢八景の景色が本当に八景だった頃である。
<昆虫採集>
もちろん昆虫を捕えることも男子の“仕事”だった。当時は捕(ほ) 虫網(ちゅうあみ) といった高級?なものは市販されておらず、せいぜい駄菓子屋で魚採り用の口径(こうけい) の小さなものを使っていた。それでギンヤンマを狙(ねら) うのである。「お池」の水際をお回りするオスを狙ったり、上空を飛ぶ個体めがけて小石を放り投げ、餌(えさ) と勘違(かんちが) いして小石を追って急降下(きゅうこうか) する個体を捕まえた。ギンヤンマのオスは子どもたちにとって人気者だった。
私だけはチョウ採り専用の網をもっていて、みなにうらやましがられていた。親が太い針金で枠(わく) を作り、それにスカーフの生地で縫ってもらった網を通してくれたのである。もっとも、スカーフ生地では目が細かすぎて、勢いよく振ってしまうと、風圧でチョウが入らなかった。ただし網の問題もあってか、子どもたちにはチョウはそれほど人気がなかった。
道具としては、セミ採り用のものもあった。針金で直径 10〜15cmの輪を作り、それを竹の先に取りつけ、コガネグモやジョロウグモの巣を巻きつけたものである。けっこうネバネバしていてよく採れたが、何度も使っているうちに粘(ねば) り気がなくなり、ミンミンゼミのように勢いのよい個体は手元に引き寄せる前に逃げられてしまう。ほかにニイニイゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシは多かったが、クマゼミだけはきわめて稀(まれ) で、それこそ一夏に 1回か2回の鳴き声を聞く程度であった。私はクマゼミを捕えたことがなく、級友が自慢げに持ってきた標本(ひょうほん) がうらやましかった(侍従川近辺で採集したものかどうかは知らない)。
カブトムシとクワガタも人気者だった。夏休みになると、早起きして丘に行き、自分たちの持ち場を見て回った。当時のクワガタの人気者は大型のミヤマクワガタで、ノコギリクワガタは分布していなかった( 1990年代にはミヤマクワガタはほとんどいなくなり、逆にノコギリクワガタが見つかった)。カブトムシとクワガタ採りは日没直後のほうが効率(こうりつ) よいが、当時はだれも夜に探しにいかなかった。おそらく夜は恐怖(きょうふ) 心(しん) があるのと、親が出歩くのを許してくれなかったせいだろう。捕えたものはスイカの食べかすを餌(えさ) として与えていた。
当時の樹液(じゅえき) は、圧倒的(あっとうてき) にクヌギがよかった。燃料はまだまだ薪(たきぎ) や炭が主体だったので、西ヶ谷戸の丘でもどこかしらで伐採がなされていた。このため若い雑木林が健在(けんざい) であり、クヌギも樹液の出るほどよい太さだった(直径 15cmを超えるとシロスジカミキリによる樹液は出ない)。それゆえ樹液ポイントはたくさんあった。
<オオムラサキはいたか?>
日本の国(こく) 蝶(ちょう) であるオオムラサキは神奈川県のほぼ全域(ぜんいき) に分布していた(現在では相模川以東ではほぼ絶滅(ぜつめつ) )が、例外的(れいがいてき) に箱根火山ではごく一部に限られ、また三浦半島も分布していない。では、横浜市金沢区ではどうかと言うと、少なくとも円海山周辺には生息(せいそく) していた(私自身が1970年頃に幼虫を採集している)。過去の文献(ぶんけん) をひもとけば、鎌倉市十二所や神武寺〜鷹取山の記録が出てくる。これらの地域は円海山からの山続きでもあるので、過去に生息していた可能性は十分にある。ただ、円海山方面からたまたま飛(ひ) 来(い) (ら) した個体の可能性もないではない。こうした状況(じょうきょう) を考えるなら、分布しているかいないかの境界は、どうやら侍従川周辺にあったと考えてよいだろう。
では、西ヶ谷戸ではどうだっただろうか?小学生からのチョウ好きであった私にとっては、もちろんオオムラサキは憧(あこが) れの的(まと) だった。しかし、影すらも見かけたことがなかった。ところが中学生のとき、「おいせ山」でオオムラサキを採ったという鼻高々(はなたかだか) の級友が現れた。私は驚(おどろ) き騒(さわ) いだが、標本(ひょうほん) を見せてと言ううちに、「じつは逃げられた」という。彼は間違いないと主張したが、ほら吹きの気がある奴だったので、子ども心にも100%の信用を置くべきでないと感じた。そもそも、私自身が幼少の頃から何度も足を運んだ西ヶ谷戸周辺の丘、それも足しげく通った「おいせ山」に、オオムラサキが生息していたとは考えにくい(ちょっと自信過剰(かじょう) かな?)。
<なつかしの植物たち>
植物の中では、丘でヤマユリを探しては各自の庭に持ち帰った。花をたくさん付ける年数を経た個体が人気だったが、そうしたものは崖上(がけうえ) など危険で入れない場所以外では採り尽くされた感があった。珍(めずら) しいものではシランがあった。子どもにはそれほど人気がなかったように思うが、当時すでに2〜3か所でしか見かけなかった。その中で、白山道へのトンネルの崖上に群生(ぐんせい) していたものが最後まで残り(採集できないゆえ)、白花の個体も交えていたので目を楽しませてくれた。トンネルの改修(かいしゅう) 工事のためだろうか、残念ながらだいぶ前からその姿がない。もしかすると自然状態のものは、侍従川流域全体としてもほとんど絶滅(ぜつめつ) 危(き) 惧(ぐ) 状態(じょうたい) になっているのかもしれない。民 家の庭に植えられている姿を見るにつけ、複雑(ふくざつ) な思いにとらわれてしまう。
当時はまた、シュンランはじめエビネ、キンラン、ギンランなどのラン科植物、それにカントウカンアオイも多かった。エビネやシュンランなどはそれこそどの雑(ぞう) 木林(きばやし) でも普通に生育(せいいく) していた。山野草ブームもまだまだ下火だったのであろう。
いまでは防災上の観点(かんてん) から、崖面(がけめん) のほとんどはコンクリートやフリーフレームで覆(おお) われている。しかし、小学生や中学生のころは、どこにでも露頭があった。その露頭を調べるといろいろな貝化石が見つかったものであるが、崖面に好んで生育する植物、とくにコモチシダやオニヤブソテツ、ホウライシダ、タチシノブなど各種のシダ植物で覆われていた。ホウライシダは外来生物だが、金沢八景周辺にはとくに多く、当時すでにどの崖面や石垣(いしがき) にも密生(みっせい) していた。
<六浦小学校の受難>
私が通っていた六浦小学校は、2度にわたって大きな被害を受けた。3年生のときだったか、横浜市立大学の北隣(きたどなり) にあった東洋化工の工場が轟音(ごうおん) とともに爆発(ばくはつ) し、爆風(ばくふう) で校舎(こうしゃ) の窓ガラスのほとんどが割(わ) れた。ちょうど授業中で、舞(ま) い上がった埃(ほこり) のために一瞬(いっしゅん) にして教室内が煙幕状(えんまくじょう) になった。顔や頭から血を出していた者もいた。訳のわからぬまま校庭に避難し、それから連(つ) れだって大道小学校に向かった記憶がある。私は額(ひたい) から少し血が出ていた程度 ですんだが、重傷(じゅうしょう) を負(お) った級友(きゅうゆう) もいた。自宅もまた窓ガラスが飛び散って悲惨な状況(じょうきょう) だったが、不幸中(ふこうちゅう) の幸(さいわ) いと言うか、祖(そ) 母(ぼ) が顔をちょっと怪我しただけですんだ。死者も出たことであり、新聞やテレビでトップニュースになった。
大学生のとき?には校舎が火事に遭(あ) った。私はたまたま家にいて、その様子を見に行った。昼間の火事ではあったが、真っユーラシア大陸北部で繁殖し、冬になる赤に高く上がる炎(ほのお) は恐(おそ) ろしい光景(こうけい) であった。木造(もくぞう) 2階(かい) 建(だ) てであったためにほとんど全焼(ぜんしょう) してしまったが、これこそ幸いと言うか、ようやく新しい校舎となった。人的(じんてき) な被 害はなかったと思うが、隣接(りんせつ) する養鶏場(ようけいじょう) にも燃(も) え広がって、たくさんのニワトリが犠牲となったらしい。
<西ヶ谷戸の外の思い出>
小学校でも評判だったというほど昆虫少年の私は、西ヶ谷戸の外に出ることはあまりなかった。人にはお茶ら気者に映(うつ) ったらしいが、じつは内気な性格(せいかく) だったので、自分の域外(いきがい) に出ることをためらったのかもしれない。
西ヶ谷戸からトンネルの向こう(現在の釜利谷南や釜利谷東)は、宮川の1支流(しりゅう) を伴(ともな) う細長(ほそなが) い谷戸となる。ここは小学生の頃は一面に水田が広がっていたが、時代を追うごとに畑が増え、建物も立つようになった。水田は「農薬につき立入禁止」のような立札(たてふだ) があったので、相当(そうとう) に強い農薬がまかれていたのだろう。遊んだのは主に川の中で、手子神社付近までがテリトリーだった。ここにはウナギもすんでいた。
宮川は谷津町方面からの川と合流し、平潟湾に注ぐ。このあたりは小学生の頃までは泥(で) 亀(き) (い) 新田(しんでん) と呼ばれる広大な湿地で、水田やハス田、ヨシ原が広がっていた。ベッコウトンボもいたという。自宅からは遠かったが、何回か歩いて行った。しかし、中学生になった頃からは大規模(だいきぼ) に埋(う) め立てられ、最後まで残った金沢高校(私の母校)と横浜市立大学前の湿地も、高校入学時( 1963年)には工事のために立ち入り禁止となってしまった。高校の生物部で泥亀新田のちゃんとした調査をしようと思っていたので、ひどく落胆(らくたん) したことを鮮明(せんめい) に覚えている。風光(ふうこう) 明媚な場所として知られていた金沢八景の、「八景」が次々と失(うしな) われていった頃でもある。
侍従川流域(りゅういき) に戻(もど) ろう。朝比奈付近から現在の釜利谷西方面は、それこそ西ヶ谷戸にすむ小学生にとっては山奥(やまおく) だった。せいぜい遠足?で朝比奈切通しを歩いたくらいであったと思う。ただし、中学 2年の冬からはたびたび山に入るようになった。六浦中学校に平沢愛三という副校長が赴(ふ) 任(ん) (に) し、私にシダ植物を指導してくれたので、昆虫が見られなくなる晩秋(ばんしゅう) から早春(そうしゅん) にかけてはシダ調査に熱中し、金沢区南部から横須賀市・葉山町一帯の山々を歩くことになったからである。ただ、池子との境は鉄条網(てつじょうもう) が張(は) り巡(めぐ) らされていたし、中に入ると軍犬が襲(おそ) うというウワサを聞いていたので、中学生になっても鉄条網沿 いの道を歩くにも怖かった思いがある。
間近に見える鷹取山も、頻繁(ひんぱん) に訪(おとず) れるようになったのは中学生以 降である。最初に訪れたのは小学生高学年のときである。神武寺駅から登ったが、境内(けいだい) の茶店のおばさんに寄(よ) っていくように誘(さそ) われ、何を食べたか記憶にないが、とにかく帰りの電車賃(ちん) がなくなって、泣きたい気持ちで歩いて帰った。
<おわりに>
私事だが、小学校 2年生のときに交通事故に遭(あ) って頭を強打した(ぶつけた車のフロントが凹(へこ) んだ)。そのせいだろうか、幼(おさな) い頃の記憶がおぼつかない。もし私の思い込みや勘違(かんちが) いで記したことがあったらご容赦(ようしゃ) いただきたい。もっとも今は60も半ばなので、近い過去すらも忘れ去ってしまうことが多い。余計なことまで言えば、老練になったせいか、都合の悪いことはなおさらである。
2013年3月22日金曜日
【私が子どもだった頃】 金沢区寺前出身 関東雄
【私が子どもだった頃】 金沢区寺前出身 関東雄
私は、昭和22年寺前東町(寺前2丁目)で生まれ、子ども時代を過ごしました。私の小さい頃は、乙とも海岸と呼ばれた小柴から平潟湾口まで、松林がきれいな自然の海岸線が残っていて海水浴のメッカでした。現在金沢の花火大会は、毎年8月の最後の土曜日に海の公園で行われますが、当時は平潟湾内で行われていました。大輪の打ち上げ花火の後は、仕掛け花火もあり、お馴染みの金鳥蚊取り線香やナイアガラの滝がエンディングでした。洲崎町の平潟湾沿いの瀬戸神社近くに武蔵屋という和菓子屋さんがありました。酒まんじゅうと八景せんべいが名物でした。八景せんべいは二つ折りの味噌せんべいで、せんべいの一つ一つに八景の焼き印が押されていました。老舗の和菓子屋でしたが今はありません。毎年その武蔵屋の2階に親戚等が集まり、目の前で打ち上げられる花火を見るのが楽しみでした。
私の通っていた文庫小学校の近くに、当時、八景園というホテルがありました。部屋の一部は、横須賀米軍の高級将校の家族の宿舎にもなっており、私たちは時々敷地内に侵入しては、米人の子ども達と喧嘩をしてました。彼等はすぐにナイフを振り回すので、すぐに逃げました。また、ゴルフの練習場があり、敷地外に落ちているボールを拾って届けると1球に付き、いくらかの小遣い稼ぎにもなりました。この八景園は、もともと大橋新太郎の別荘で後に西武鉄道が大遊園地構想のために買い取りました。大橋新太郎は今の共同印刷の前身である博文館のオーナーで泥亀新田を買い取り金沢文庫の再建にも貢献した人物で、金沢を語るときに欠かせない有力者の一人です。大金持ちのダイヤモンドにつられて恋人の貫一を裏切り、それを知った貫一に熱海の海岸の松ノ木の下でお宮が足蹴にされる尾崎紅葉の金色夜叉の話は有名ですが、その大金持ちとお宮のモデルが、大橋新太郎とその妻です。
乙とも海岸が埋め立てられる前の話ですが、40年程昔の夏の夜に海の中をアセチレンランプを持った人たちで大賑わいになった時期がありました。カーバイドに水を入れて光らせるアセチレンランプは、懐中電灯より遥かに明るくて縁日の屋台等でも使用していたのです。 毎晩の様にモリをタモ竿の後ろにつけたた道具と、ランプを持って海の中を夜中まで歩き回っていました。ワタリガニ、カレイ、芝エビなどその日によって収穫できるものが違います。芝エビが採れる頃は、私たち家族が全員で参加しました。ランプの光で目が赤く光るえびを追い掛けると海面に浮上してジャンプします。そのタイミングでタモを上からかぶせて捕まえるのですが、えびを追い掛ける人たちの声で海は大騒ぎでした。私の学生時代は、小柴の底引き網でタイラガイやホタテ、ミル貝などが捕れていました。それらの貝は、江戸前の高級貝として市場には出さず、直接料亭に卸していたそうです。漁港には、東京の高級料亭からの仕立て便のトラックが毎朝列をなしていたそうです。運転手は自前の出刃包丁を持参して、漁港で手に入る新鮮な魚介類をその場で刺身にして食べていたということです。シャコもたくさん捕れていたころで、シャコは腐りやすいので船からあげるとその場で茹でていました。
小さい頃は、ホンチ遊びをよくやりました。春先から5月いっぱいの間マサキやツツジの葉の上によく見かけられるのが、ネコハエトリ蜘蛛、通称ホンチです。昭和30年頃、このオスを捕まえて育て戦わせる遊びが横浜南部を中心に大ブームになりました。マッチ箱大で中箱が2つに仕切られ、観察用のガラス板が添付されていた飼育箱を購入し、エサを与えて大切に育てます。このホンチを飼う箱は、近くの駄菓子屋に売っていました。小さな板の上に乗せてどちらかが逃げ出すまで戦わせるのですが、前足2本を二刀流の剣の様に振りかざして組合う戦い方が格好よくて夢中になりました。バラの葉にいるバラポンと称するホンチが一番強いと言われ、頭に白い模様がついたカンタは別種の様で、すぐに相手を殺してしまうため反則扱いでした。ホンチとは別に、木の根元等から地中に巣を作るジグモもまた良き遊び相手でした。地上に飛び出ている袋の端を静かに引き上げ、底にいるのを捕まえます。ジグモの戦いは牙を相手の腹に突き刺す殺し合いで、育てる楽しみもなく、あまり人気はありませんでした。(ホンチの写真を挿入)
私は、現在は保土ケ谷に住んでいて、月に何回か実家のある金沢に通う身ですが、この歴史と自然のある金沢が大好きです。金沢の自然と文化によって育てられた子ども時代の楽しい思い出は宝物です。今は平安時代からその名勝がたたえられた金沢八景の面影はなくなってしまいましたが、残された海岸や湾、島、侍従川などの自然や歴史的な史跡は他の町に負けません。これからも金沢の自然や文化を大切に守り育てて、たくさんの楽しい思い出を育んでください。大人になってから、きっとすばらしい財産になりますよ。
***おまけ***
【机の上のハンティング】
私が京橋の事務所に通っていた頃のお話です。小さな雑居ビルで下の階に焼き鳥屋が入っていることもあり、よくゴキブリがはい回っていました。ある日、仕事をしている机の上の書類近くに、その嫌らしい虫が近づいて来たので払おうとすると、書類の山の上の方に蜘蛛がいて、その虫を狙っていることに気づきました。ハエトリ蜘蛛のハンティングです。仕事も忘れて、そのハンティングに見入ってしまいました。
体調2センチ程の小さなゴキブリですが、その蜘蛛にとっては数倍の大きさ。距離は獲物の進行方向上部斜め前方約30センチ、相手の前進に合わせて少しずつその距離を詰めていきます。獲物はゆっくり歩きながら警戒のため立ち止まります。ハンターは、相手をうかがいながら、その間5センチになるまでツツーと距離を縮めていきます。獲物が通り過ぎたその瞬間、後部から飛びつき剣を刺して、しっかりと獲物を抱え込むとあっという間に引き揚げたのです。その間10分程、ハンティングの邪魔にならないよう身じろぎもできませんでした。目の前の机の上で行われた狩りを体験しました。こんな所にも弱肉強食の厳しい世界があることに驚かされました。
家の中でも、よく蜘蛛を見かけます。でも、その姿形がグロテスクなので嫌いな人って多いですね。ホンチは小さくてかわいいのですが、家の天井などを這っている体長10センチもある通称イエグモ(アシダカ蜘蛛)は、大きくて気持ちが悪く嫌われています。所々に抜け殻が落ちていたり、ほうきなどで叩くと足がとれて残っていたりして・・・。でも彼らはゴキブリをエサにしている益虫なんです。(人間が勝手に決めた益虫、害虫という言葉は、好きではないのですが・・・。)注意して観察してみると身の回りにいる蜘蛛たちも一生懸命生きていることに気づかされます。
私が子どもだった頃 西大道町内会 藤田啓次
私が子どもだった頃
西大道町内会 藤田啓次
私は昭和16年に横須賀の船越で生まれました。国が防空壕を掘るというので家が立ち退きに遭い、父親が海軍工廠に勤めていた関係で3歳の頃ここに引っ越してきました。車のない時代でしたから、船越から乳母車に乗ってきたと聞いています。一番上の兄は九州で特攻隊の飛行機の整備員をやっていました。次男は、浜松から満州に渡った後に終戦になり、ソ連の捕虜になりシベリアに3年くらい抑留されました。その兄が外国から帰ってくるというので、お土産を期待して、大道小学校の先まで迎えに行ったのですが、帰って来た時の兄の姿は、乞食のようでガッカリしました。
私たちが引っ越して来た時は、田んぼが、かなり残っていました。田んぼには、自噴式の井戸があり孟宗竹の筒からジャージャー水が吹き出していました。今から考えると上総堀りで掘った井戸だったと思います。私の家のすぐ近くに侍従川が流れていますが、横浜屋の方向に川が曲がる手前の一段低くなったところに水門がありました。渇水期に田んぼに水をひくために水を溜めてあったのです。横浜屋の隣は今は駐車場ですが、その頃は田んぼで、そこまでU字溝で侍従川の水をひいていました。三浦屋の方にも水路が引いてありました。川幅は、今と変わりませんが深さは子どもが潜ってしまうくらいありました。そこには、たくさんの生き物が棲んでいて、夏になるとヘビと一緒に泳ぐような感じでした。水門を開けた時には、うなぎ、フナ、ドジョウが沢山捕れました。場合によっては石で流れをせき止めて、カイボリをやってフナなどを捕まえることもありました。私たちの遊び場は上流で、中流や下流には行きませんでした。侍従川は、台風シーズンになると溢れることがありました。私の家の床上まで水は来ませんでしたが、床下浸水はよくありました。
西大道には、防火用水がたくさんありました。私の家のまわりにも3つくらいありました。深さが1メートルもありましたので、夏になるとそこでも泳ぐことも出来ました。冬になると侍従川で捕まえたフナを逃がして飼っていました。その防火用水は、年に一度、水を抜いて近隣の人たちが掃除をしていました。その時は、水道も4軒に1個の協同水道で、その水を一晩入れておくと大体一杯になりました。この防火用水は、消火栓の代わりに爆弾が落ちた時にすぐ消せるように海軍工廠が作ったもののようです。
私たちは西大道から朝比奈にかけての山でよく遊びました。ツルを使ってターザンごっこをしたり、お正月になると門松を取りに行ったりしました。竹を取って竹馬なんかも作って遊びました。正月になると凧揚げも良くやりました。凧揚げに夢中になって肥だめに落っこちたこともありました。凧は電、線がないところを狙って、近くのは畑から朝比奈に向かって西向きに飛ばしていました。近くに凧の名人がいて、飛ばなくなると持って行って調整してもらっていました。
ベーゴマ、メンコ、ビー玉も良くやりました。ベーゴマは桶を逆さにして、そこにケンパス布を敷いて戦わせる場所をこしらえました。ケンパスでは、布の目に入ってしまうとベーゴマが動かなくなってしまうことがあるので、家にあったゴムのカッパを使うこともありました。遊びに夢中になってカッパに穴を開けてよく怒られました。
夏のお祭りになると各町内からお神輿が出ました。けんか神輿ではありませんが、町内のお神輿が小競り合いをやっていました。追浜のナタギリからも来ていて、そのお神輿が古くて一番良いものでした。西大道には屋台がありませんので、東大道の屋台に乗り込んで、ひょっとこの面をかぶって踊ったり、太鼓を叩いたりしていました。
朝比奈との交流は少なかったのですが、お百姓さんがリヤカーで野菜を売りに来ていました。相武隧道の先の本郷からも来ていました。私が中学生になる頃まで来ていました。朝比奈の野菜を食べて育ちましたが、私は、大麦を炒って挽いた粉に砂糖をまぶしてお湯でこねた、麦こがしという食べ物が好きでした。
大晦日の夜の10時ころになるとになると、朝比奈峠を越えて鎌倉の八幡様まで歩いて初詣に行きました。夜の朝比奈峠は恐かったですね。その頃は鎌倉霊園の所は、本物の砲台が置かれた砲台山で、今のような整備された道はありませんでした。東京湾からアメリカ軍のB29が攻めて来ると砲台山の高射砲で防戦しました。私の家のまわりにも高射砲の薬莢がバラバラと落ちてくることがありました。砲台山になる前は、逗子の財閥の人が古い仏像などをコレクションして飾っておくような場所だったようです。今でも、鎌倉霊園に行くとお宮さんのようなものが残っていますが、それが名残です。終戦後は、その砲台山の地下に掘られた地下壕でよく遊びました。鎌倉霊園が出来たのは、昭和40年代になってからです。
朝比奈峠の頂上を越して熊野神社への分かれ道の先の右側に平らな土地がありますが、そこに番屋がありました。人が住んでいなくて、廃墟になっていましたので、私たちはお化け屋敷と呼んでいました。池もありました。その辺りに門がありました。昔は朝比奈峠を歩く人を検問していたのでしょう。また、朝比奈峠を越して大刀洗の方に曲がる道の左側に立派な三重塔が残っていました。
六浦駅のところから久木のあたりまで、今はバラ線になっていますが、山の尾根伝いに万年塀がずっとありました。青い色をしていたので、私たちは青壁と呼んでいました。塀を隔てた池子側には米軍の兵隊が鉄砲を持って巡回していました。池子の森は、人が入らないので良い自然薯が沢山あったそうです。朝比奈を中心にプロの芋掘りたちが山に入っていましたが、ここだけは聖域でした。
今の青木製作所の奥には高梨牧場があって牛を飼っていました。そこにも自噴式の大きな井戸があって、段々になったプールのようなコンクリの水槽に水を溜めていました。その水槽で金属製の入り口が丸い大きな容器に入った搾り立ての牛乳を冷やしていました。その牛乳を一升瓶を持って買いに行かされました。
環状4号線は砂利道で所々がコンクリで固めたような道でした。でも、私が中学の頃にはバスが走っていました。バスと言っても煙突から煙を吐き出しながら走る木炭バスでした。発展途上国の写真にあるようにバスの後に人がぶら下がって乗るような状態でした。兄の話を聞くと、船越から金沢八景に泳ぎに行く時は、国道16号線を通るのではなくて海の方を歩いて行っていたようです。その頃は、横浜の三渓園から杉田、富岡、文庫、八景は海水浴場として賑わっていました。杉田までは、キリンビールの工場がある生麦から市電が通っていました。川崎大師に行く線が京浜急行、日の出町のトンネルを境に横須賀側が湘南電車でした。その後、全ての線が京浜急行になりました。
私は、大道小学校の10期の卒業生ですが、当時の校舎は、木造で六浦小学校の分校のような感じでした。今、井戸掘りをやっている辺りに用務員室や食堂があり、給食では米軍が配給した脱脂粉乳を良く飲まされました。衛生状態が悪く、当時の小学生はみんな虱を持っていましたので、駆除のためにDDTの白い粉を背中や頭にかけられていました。野菜の肥料は、化学肥料でなく人糞でしたので、回虫駆除のために、ひまし油を下剤として飲まされました。きたない話ですが、20センチもある長い回虫が肛門から出てくることもありました。栄養状態が良くなかったのでクジラの脂で作った不味い肝油も飲まされました。その頃は、7組くらいあって、ひとクラス60人くらいの生徒がいました。それでも教室が足りなくて、二部授業にしたり、近くの寮を借りたりしていました。
大道小学校の運動会は盛大でした。西大道、大道、川、南川、三双など町内ごとに応援席が別れていて、町内対抗別のリレーがあり、小学校高学年、20代、30代、40代の選手を町内ごとに出して競ってい大変な盛り上がりでした。
六浦中学は、大道小学校よりさらに生徒が多くて10組を越えていました。その頃、六浦中学は、金沢八景の横浜市立大学のキャンパスの中にありました。当時の六浦中学の近くには東急車両、爆発があった東洋化工などがありましたが、当時は海軍の施設があったので地下にケーブルが埋設されていて電柱はほとんどありませんでした。その地下ケーブルのトンネルにもぐって遊んでいたところを先生に見つかって、よく怒られました。
今は、学校の教育について、親が学校の先生に文句を言うことが多いようです。私たちが育てた子どもが親になってやっているので、大きなことは言えませんが、それは少し考え違いをしているのではないかと思います。本来、子どもは学校が育てるのではなく、親が育てるものだと思います。細かい勉強は学校の先生に教えてもらう必要がありますが、普通の生活をするための基本的な考え方や躾などは親がきちんと教えるべきです。私なんか、悪いことをして、学校の先生に怒られたことを親に言うと、「お前が悪いんだ」と、また、怒られるので家に帰っても何も言いませんでした。
また、鉛筆削りが悪いとは思いませんが、いざとなったらナイフで削れるくらいのことは、子どものうちに身につけてもらいたいと思います。ナイフで指を傷つけても落としてしまうわけではないのですから、刃物の扱いを誤ると痛くて血が出ることくらいのことは経験させておいた方が良いと思います。勉強は、いくつになっても、やろうと思えばできますが、子ども時代にみんなと遊ぶこと、色々な体験をすることは、その時にしかできません。勉強ばかりして家の中にひきこもっているのではなく、侍従川で魚をとったり、海の公園で泳いだりして、多少のことではへこたれない、たくましい子どもに育って欲しいと思います。
私が子どもだった頃 川町内会 小泉元久
私が子どもだった頃 川町内会 小泉元久
私は、大正12年に侍従川の近くで生まれました。家は、侍従橋より50メートルほど川下の侍従川に面したところです。以前、白梅保育園をやっていましたので、そちらをご存知の方が多いかと思います。私が小学生の頃は、白梅公園を取り巻くように畑があり、六浦の消防署より南側は一面の田んぼで、その中を京浜急行が逗子に向かって走っていました。まだ、六浦駅はなく、郵便局のあたりに1軒だけ家があったのを覚えています。
昔は、義務教育が小学校まででしたので、近所の子どもたちが集まって遊べるのは、小学校の6年間でした。私たちがよく遊んだところは高橋から下流で、大道まで遠征していくことはありませんでした。私の家より少し下流で三艘川と侍従川が合流していますが、川遊びの中心は、この三艘川でした。三艘川は流れが穏やかで、上流に家がなかったため水がきれいで魚が豊富でした。小学2、3年になると川に入って友だちとフナやハヤを追いかけて遊びました。
大道の子どもたちは、侍従川の上流でカイボリをしてウナギを捕ったと侍従会の会報に書いてありましたが、私は、その様な経験はありませんでした。季節の良いときには家から川に下りてゴカイとかイソメを掘り起こして釣り餌の準備をして、侍従川で釣りをしました。獲物はなんと言ってもハゼで、そのハゼを、その後、自分でどうしたという記憶がありませんので、ただ釣れたときの感覚がおもしろくてやっていたのだと思います。9月のお彼岸の前に捕ったハゼは干してもカビが生えると言われていました。彼岸が過ぎてからのハゼは形が良く、大きいものは祖母が手を尽くして乾燥して保存し、正月の昆布巻きにしてくれました。
また、家にボートがありましたので、満ち潮のとき兄と平場湾の方に出かけて釣りをしたこともあります。その頃の地形は今とはずいぶん違ったものでした。柳町のあたりは海で、野島は平潟町と地続きになっていました。野島橋や夕照橋はありませんでした。瀬ヶ崎の先端の室の木と野島の間は渡し舟がありました。平潟湾には研究用として牡蠣棚があって、そこに魚がよりつくと言うのでボートでよく釣りに行きました。しかし、釣り糸が牡蠣の貝殻に絡みついたり切られたりして困ったことがありました。
魚釣りをして、たくさん釣れたのは、ウナギの子どものメリュウという稚魚でした。糸に絡まって外すのが大変でした。また、頭に角があってぬるぬるするネズッポと言っていたメゴチや餌どろぼうのフグは私たち子どもにとってはどうしようもない獲物でした。メゴチが、てんぷら屋さんの良い材料になるということは、ずいぶん後になって知りました。
当時、子ども心に不思議に思っていたことはボラの子のイナのことです。イナは上げ潮のとき今でも群れをなして侍従川に上がってきますが、そのイナを釣ったり獲ったりしている場面を見たことも聞いたこともありませんでした。逃げ足の速い魚であったことと、食べても美味しくないということで、魚としてあまり評価されていなかったのかもしれません。
ハゼで昆布巻きを作ってくれた明治3年(1870)生まれの祖母の話によりますと、金沢・六浦は、お嫁に来た頃は三方山に囲まれていたということでした。横浜、横須賀、逗子、鎌倉のどの方面に行くのにも山道で、六浦は陸の孤島のような場所でした。しかし、それゆえ風光明媚な風景が残る静かな村だったようです。鎌倉時代に開通した朝比奈峠を通って鎌倉に出る道が唯一の道らしい道でした。陸路はそのような状況でしたが波静かな平潟湾がありましたので、船による交通は発達していたようです。今から100年も前の話ですが、祖母は富岡から舟に乗って六浦に着き、侍従川を上って嫁入りしたと聞いています。現在の人にはとても想像が出来ないことでしょう。
その頃は、小学校も少なく、私の同級生の中には室の木や瀬ヶ崎から歩いて六浦小学校に通っていた生徒もいました。小学校のI、2年生にとって、これだけ長い距離を徒歩で通学することは、雨の日などは大変だっただろうなと思います。時代を重ねるに従って、景色や私たちの生活は、ずいぶん変わりましたが、子どもたちの旺盛な好奇心に変わりはないと思います。平成の子どもたちも、侍従川で思う存分遊んで色々な経験をしてもらいたいと思います。
私が子どもだった頃 安斎純雄
2011年3月6日日曜日
11)<私が子どもだった頃> 大道町内会 長島太郎
私の家は、宝樹院という真言宗のお寺の石段を降りたところにあります。そんな関係で「てらのした」という屋号で呼ばれています。大道では昔から、「わきのやと」とか、「みょうど」などの屋号で呼び合っていました。昔は、近所付き合いも今より盛んでしたし、同じ姓が多かったので、このように、あだ名のようなもので呼びあっていたのでしょう。
私は、大正5年に、大道に生まれました。これから、私が子どもだった頃の様子をお話したいと思います。今は、大道小学校や高舟小学校、六浦小学校などのたくさんの小学校がありますが、私が小さい頃は、この辺には、三分学校という学校しかありませんでした。三分学校は六浦の交番の近くの北辰神社の横の道をまっすぐ行って、侍従川を渡った右側にありました。私が小学1年に入学した年の9月に関東大震災という大きな地震がありまして、学校は、跡形もなく壊れてしまいました。三分学校に通っていた子どもたちは、宝樹院、上行寺、泥牛庵などのお寺に分かれて勉強を続けました。校舎が新しく建て替えられて、学校に通えるようになるまでに3年もかかりました。
そのころの金沢の地形は、今とはまるで違っていて、六浦から室の木にかけての場所や柳町のあたりは全て海で広い湾になっていました。その三分学校から東側の地域は、広い砂浜になっていまして、海の水が、ひたひたと押し寄せるような場所でした。上行寺の前の道路を渡ったところのコンビニの近くには、今では家がたくさん建っていますが、このあたりは、昔は砂浜で、塩を作る場所でした。今では、塩場住宅という地名になっています。今の国道16号のあたりは松林になっていて、そのあたりからずっと砂浜が続いていました。松林には鈴虫がたくさんいて、良く捕まえに行きました。この砂浜で、くみ上げた海水を舟に乗せて侍従川の上流に運び、それぞれの家の軒先で大きなナベで煮詰めて塩を作っていました。
侍従川は、葦や竹が生えた自然のままの川で、地面からすぐの所に水があり、今よりもだいぶ水量がありました。満潮の時には、山王橋のあたりまで、潮が上がってきました。かなり深くて、子どもたちが川に飛び込んで水遊びをすることも出来ました。侍従川は、田んぼに水を引いたり、生活用水に使われていただけでなく、いろいろな生活物資を運ぶ交通手段にも使われていました。私が最も印象に残っているのは、肥やし舟です。昔のトイレは、今のように水洗ではなく、便器の下に穴を掘って糞尿を溜めて、いっぱいになると、それをくみ上げるというような原始的なものでした。その糞尿を肥やしと言っていました。肥やし舟は、くみ上げた糞尿を上流の大道に運んでいました。大道には、広い耕地に畑や田んぼがありましたので、その肥料に使っていました。
今の大道郵便局のあたりに、大堰と呼ばれる大きな堰がありました。侍従川の渇水期に田んぼに水を入れるために板で川を、せき止めて堰を作ってありました。広さは5〜6メートル四方もあり、深さが2メートルもありました。そこで泳ぎの練習をやりました。大堰には、フナやどじょう、ウナギがたくさんいました。ウナギとりには、長い棒の先に餌の付いた糸をつないだ特別な道具を使いました。ウナギの棲んでいる穴のなかに餌と針を入れると、おもしろいように大きなウナギが釣れました。釣ったウナギは、家で料理してもらって食べました。また、侍従川にはホタルがたくさんいて、蚊帳の中にホタルを放して遊んだものです。
私の家の近くの堂山と呼ばれる山に洞窟が掘ってあり、その先に大きな縦穴がありました。最近は行っていませんが今でもあると思います。ハシゴを使わなければ下りれないほど深い穴で、底は6畳くらいの広さがありました。何のために掘られた穴なのかは分かりませんが、当時は、何にも使われていなくて子どもたちの遊び場になっていました。子どもたちは、この場所をそこめんと呼んでいました。当時、そこめんのあった堂山のまわりは、荒れ放題で、廃寺になった常福寺の墓石などが倒れて散乱していました。堂山の近所で、あまりに病人が続けて出るので、宝樹院の住職に頼んで供養してもらいました。墓石もきれいに直して、毎日、掃除をしました。それからは、病人が出ることもなくなりました。
宝樹院の階段を降りて車道に出る所に関所の跡がありました。今では、車庫になっていますが、私が小さな頃は、四角い窪地になっていて、関所の立て札が立っていました。昔は金沢から鎌倉に行く人たちからお金をとって、お寺の修繕などに使っていたと言われています。
若かった頃の話ですが、私は戦時中、技術者として横須賀海軍工廠という軍事工場に勤めていました。戦争が終わって階級社会から開放されたとき、初めて人間というものが見えました。人は本来誰でも平等で、それぞれが何かしらの得意分野を持っているのだと悟りました。前向きな気持ちで、その得意分野を伸ばすために努力をし、活かしていくことが大切だと思います。
大道は豊かな自然環境が今でもたくさん残っています。それが、この土地の人の特徴である穏やかな人格を作っていると思います。また、大道には関所跡があり、近くには金沢八景や金沢文庫の称名寺など多くの史跡があります。横浜というと都会的で賑やかなイメージがありますが、こういう静かな場所も横浜の中に残していきたいと思います。
10)≪私が子どもだった頃≫ ふるさと侍従川に親しむ会 会長 相川 澄夫
昭和20年代から30年代が私の子ども時代でした。高舟台、湘南八景はまだ雑木山でしたし、ハードオフの谷戸は全部田んぼ、青木製作所の奥に高梨牧場がありその奥は田んぼさらに奥にため池がありました。大道中学の谷戸も全部田んぼで山際を細い水路が流れていました。南川の奥も田んぼでその奥に染谷という牧場があり山は雑木山でした。平潟湾は柳町もなく、花火大会が開かれたりしていました。
六浦中学は市大の中の旧兵舎を使っていて、関東学院も木造の旧海軍の建物のようでした。瀬戸には今のローズマンションのあたりに竜宮館というヘルスセンターのような温泉と宴会のできる施設ができました。野島は冬場になると海苔を干すだれが並び、路地はあさりの殻が敷き詰められ海には海苔ひびが立って、いなかの漁師町でした。
大道小の裏門のいまのココスのあたりにはベンケイガ二が護岸の鷹取石の隙間に無数にいて道路にまでゾロゾロといっぱい、はい出してきていました。白黒テレビが町内の床屋に入り力道山のプロレスや栃錦、若乃花、朝潮、吉葉山、などの相撲を何十人という人だかりで見たり、三輪自動車が走り、バスはボンネットバスで車掌さんが乗っていました。相武隧道の向こうは八軒谷戸の地名どおり八軒くらいの農家しかなく環状4号は未舗装のデコボコ道で、神奈中バスにのると穴ぼこの道で天井まで跳ね上がる位でした。
進駐軍をあちこちに見かけ、京急の六浦駅が木造ですぐ横に踏切ふみきりがありました。戦後の海外からの引揚者用の寮も5~6カ所あり空襲で焼けだされた人たちや戦後、台湾、満州、中国、朝鮮などからの引き上げてきた大勢の人たちがこのまちに生活するようになってきました。まさに『3丁目の夕日の時代、トトロの森の時代』でした。
大道小学校が学年8クラス約400名以上いて低学年のときは2部授業で、早番、遅番があり私たちにとっては遊ぶ時間がいくらでもありました。何をして遊んだか思い出しながら、四季に分けて書いてみました。
春は侍従川でめだか、ふな、どじょう、たんぼではおたまじゃくし、ザリガニを捕まえ、ザリガニの身でまたザリガニを釣り、麦の畑ではあおい麦の穂をとって中の実を噛んでチュウインガムだなんて言っていました。山に行ってはサクランボや桑の実を食べ、口の周りを紫色にして夕方家に帰ったものでした。
夏は町内にあった防火用水の水を消防団のおじさんたちが入れ替えて即席のプールをつくり、町内のガキ大将をはじめみんなが遊びました。暑い盛りになるとあちこちで赤痢がはやったり日本脳炎が発生したり、親たちには汚い川には絶対入って遊んではいけないと言われたものでした。確かに今思い出してみると、下水もなく生活排水のたれ流しの川だった侍従川は草ぼうぼうで、汚なく臭いどぶ川だった思います。
それでも隠れて川やたんぼに行ってカエルを捕まえて、おしりに麦の茎やストローを刺さしておもいっきり息を吹き込みカエルのお腹なかが風船みたいに膨らみパ-ンと破裂させたり、アカガエルの身は焼くとうまいと聞き、捕まえてたき火で焼いて食べたり、へびのしっぽを持ってぐるぐる振り回してみたり、トカゲのしっぽをちょん切ったり、毎日が新しい発見で楽しい体験でした。
今のスーパー横浜屋のところが大堰のところまで田んぼで、夜には蛍がいくらでも飛んでいて、うちわで叩くとおもしろいほど捕まえられ、家に持ち帰り蚊帳の中に放して遊んだりもしました。トンボどろと言っていたオニヤンマをとることが自慢だったり、セミ、かぶとむし、クワガタ、カミキリムシなど昆虫はいくらでも身の回りにいました。知り合いの若い衆が川の上流でトラックのバッテリーの電極を水の中に入れて魚を感電させてうなぎを捕まえていたのを見たこともありました。
秋には山ではあけび、栗もぎ 栗の渋をむいてコリコリした生の実を食べたり、民家の柿がたくさん実りどこの家の柿が渋いか甘柿かよく知っていました。秋の十五夜のお月見には、線路で電車に轢かせて平になった5寸くぎを竹の棒の先に着けたモリで、暗くなってからよその家のお月見のお団子やお供えの果物などそおっといただきに行き、ときには失敗して見つかってどなられたりスリル満点の遊びでした。
冬は12月も暮れが近くなると原っぱで凧揚に夢中でした。より高くながい時間飛ばせるか、こま回し、竹うま、など年長のガキ大将から教えてもらいました。めんこ、ビー玉、ベーゴマ、ちゃんばら、戦争ごっこ、等々、書いていると子どもの頃のあの子この子と顔や名前が浮かび、今は60から70歳になる皆がなつかしく思い出されます。
2010年9月5日日曜日
侍従川の名前の由来
(油堤は、現在の侍従橋から見下ろす辺りで、近くに千光寺というお寺がありました。千光寺は、今は、東朝比奈に場所が移っています)
油堤はツルツルとした岩が崖のようになっていて、とても這いあがることは出来ません。普通だったらとても助かる状況では、ありません。しかし、信心深い照手姫は一心に観音さまにお祈りしました。
すると、どうでしょう。不思議な事に川のほとりに近い千光寺の観音さまが現れて、溺れかけている照手姫を救い出しました。照手姫を土手の草むらに静かに寝かせると、観音さまの姿は消えてなくなりました。
このありさまを、初めから終わりまで野島の漁師がただ一人見ていました。漁師はあまりに不思議な出来事に驚き、漁師は照手姫のお世話をしようと、野島の家に連れて帰りました。
そして、幾日かして『侍従』という名の照手姫の乳母が、姫を探して、はるばる油堤までやってきました。
その辺りには悲しいうわさが流れていました。
一人の若い姫が悪者たちに川に投げ込まれて、どうしたわけか死体も上がらないというのです。
その話を聞いて侍従は、気も狂うほどに驚き、悲しみました。そして、とうとう悲しみのあまり、持ってきた照手姫のお化粧道具をその場に置くと、姫のあとを追うように川に飛び込んで自殺してしまいました。
こんな悲しいことがあって良いのでしょうか。
その時から、誰言うことなく、この川を照手姫の乳母の侍従の名をとって『侍従川』と呼ぶようになったのです。
これが侍従川の名前の由来です。今から、600年以上も前のお話です。
9)私が子どもだった頃 川町内会 小泉元久氏
私は、大正12年に侍従川の近くで生まれました。家は、侍従橋より50メートルほど川下の侍従川に面したところです。以前、白梅保育園をやっていましたので、そちらをご存知の方が多いかと思います。私が小学生の頃は、白梅公園を取り巻くように畑があり、六浦の消防署より南側は一面の田んぼで、その中を京浜急行が逗子に向かって走っていました。まだ、六浦駅はなく、郵便局のあたりに1軒だけ家があったのを覚えています。
昔は、義務教育が小学校まででしたので、近所の子どもたちが集まって遊べるのは、小学校の6年間でした。私たちがよく遊んだところは高橋から下流で、大道まで遠征していくことはありませんでした。私の家より少し下流で三艘川と侍従川が合流していますが、川遊びの中心は、この三艘川でした。三艘川は流れが穏やかで、上流に家がなかったため水がきれいで魚が豊富でした。小学2、3年になると川に入って友だちとフナやハヤを追いかけて遊びました。
大道の子どもたちは、侍従川の上流でカイボリをしてウナギを捕ったと侍従会の会報に書いてありましたが、私は、その様な経験はありませんでした。季節の良いときには家から川に下りてゴカイとかイソメを掘り起こして釣り餌の準備をして、侍従川で釣りをしました。獲物はなんと言ってもハゼで、そのハゼを、その後、自分でどうしたという記憶がありませんので、ただ釣れたときの感覚がおもしろくてやっていたのだと思います。9月のお彼岸の前に捕ったハゼは干してもカビが生えると言われていました。彼岸が過ぎてからのハゼは形が良く、大きいものは祖母が手を尽くして乾燥して保存し、正月の昆布巻きにしてくれました。
また、家にボートがありましたので、満ち潮のとき兄と平場湾の方に出かけて釣りをしたこともあります。その頃の地形は今とはずいぶん違ったものでした。柳町のあたりは海で、野島は平潟町と地続きになっていました。野島橋や夕照橋はありませんでした。瀬ヶ崎の先端の室の木と野島の間は渡し舟がありました。平潟湾には研究用として牡蠣棚があって、そこに魚がよりつくと言うのでボートでよく釣りに行きました。しかし、釣り糸が牡蠣の貝殻に絡みついたり切られたりして困ったことがありました。
魚釣りをして、たくさん釣れたのは、ウナギの子どものメリュウという稚魚でした。糸に絡まって外すのが大変でした。また、頭に角があってぬるぬるするネズッポと言っていたメゴチや餌どろぼうのフグは私たち子どもにとってはどうしようもない獲物でした。メゴチが、てんぷら屋さんの良い材料になるということは、ずいぶん後になって知りました。
当時、子ども心に不思議に思っていたことはボラの子のイナのことです。イナは上げ潮のとき今でも群れをなして侍従川に上がってきますが、そのイナを釣ったり獲ったりしている場面を見たことも聞いたこともありませんでした。逃げ足の速い魚であったことと、食べても美味しくないということで、魚としてあまり評価されていなかったのかもしれません。
ハゼで昆布巻きを作ってくれた明治3年(1870)生まれの祖母の話によりますと、金沢・六浦は、お嫁に来た頃は三方山に囲まれていたということでした。横浜、横須賀、逗子、鎌倉のどの方面に行くのにも山道で、六浦は陸の孤島のような場所でした。しかし、それゆえ風光明媚な風景が残る静かな村だったようです。鎌倉時代に開通した朝比奈峠を通って鎌倉に出る道が唯一の道らしい道でした。陸路はそのような状況でしたが波静かな平潟湾がありましたので、船による交通は発達していたようです。今から100年も前の話ですが、祖母は富岡から舟に乗って六浦に着き、侍従川を上って嫁入りしたと聞いています。現在の人にはとても想像が出来ないことでしょう。
その頃は、小学校も少なく、私の同級生の中には室の木や瀬ヶ崎から歩いて六浦小学校に通っていた生徒もいました。小学校のI、2年生にとって、これだけ長い距離を徒歩で通学することは、雨の日などは大変だっただろうなと思います。時代を重ねるに従って、景色や私たちの生活は、ずいぶん変わりましたが、子どもたちの旺盛な好奇心に変わりはないと思います。平成の子どもたちも、侍従川で思う存分遊んで色々な経験をしてもらいたいと思います。
照手姫ものがたり
むかし、今から六百年以上も前の室町時代の頃のお話です。
その頃、足利持氏という関東管領が鎌倉に住んでいました。
関東管領というのは都に住んでいる将軍さまの代わりに、関東地方を治めるという大切な役目をする人のことです。
ところで、将軍さまには子供が無くて世継ぎに困っていました。
持氏は、
「よい折じゃ、息子の安王丸か春王丸のどちらかを何とかして将軍にしてしまおう」
と、たくらみ、自分の子を将軍にする運動を密かに始めました。
さて、常陸の国に小栗判官満重という侍がおりました。
満重は智恵も勇気もあり、その上、心の正しい人でしたので持氏のたくらみに賛成しませんでした。
持氏は自分のたくらみに賛成しない満重が邪魔になったので、小栗城を攻め滅ぼすことにしました。
「や〜っ、や〜っ!!」
と大声で呼ばわりながら土煙を上げて、持氏の家来たちは小栗城を取り囲みました。
満重たちは勇ましく戦いましたが、何十倍もの敵にはかないません。
とうとう、小栗城は落ちてしまいました。
「ひとまず三河の国(愛知県)へ落ち延びよう」
と満重は十人の家来をつれて敵の囲いの中を逃れ出ました。
それから間もなく、十一人の旅人が相州路(神奈川県の道)を歩いておりました。
これが満重たちの仮の姿だったのです。
満重たちが藤沢の宿まで来た時には夜になってしまいました。
そこで、『横山』 という、宿屋に泊まることにしました。(解説:今の戸塚のあたりだったようです)
ところが宿屋の主・横山大膳は、この辺りを荒らしまわる泥棒の親分だったのです。
大膳は満重たちが旅の姿はしていても、立派なお侍であることに気づきました。
「しめしめ、良い獲物じゃわい」
とつぶやくと、横山大膳は満重たちを一番良い部屋に通し、お酒を勧めました。
横山大膳は満重たちが酔いの回ったところをみはからって『鬼鹿毛(おにかげ)』 という、日本一の暴れ馬を連れて来ました。
「お侍さま、この馬は近寄ると人をも食い殺すという暴れ馬ですが、なんとか大人しくさせて戴けないでしょうか」
と満重に話しかけてきました。
横山大膳は酔っている満重が馬に乗りそこなって、大怪我をするか死ぬことにならないかと、考えたのです。
満重は
「良い馬じゃ!」
と言って飛び乗りました。
満重は馬乗りの名人だったのです。
庭先を自由に乗り回し曲芸までやってのけました。
あまりに見事な満重の手綱さばきに横山の者たちもびっくりしてしまいました。
満重を自分たちの力でやっつけるのは難しい、と、考えました。
そこで、横山大膳は、ひそひそと相談して
「お酒の中に毒を入れて殺してしまおう」
ということになりました。
横山大膳は美しく着飾った女たちを呼び、満重たちに毒の入ったお酒を勧めさせました。
ところで、女たちの中にひときわ美しい娘がおりました。
その名を照手姫といいました。照手姫は立派な武家の娘にうまれ何不自由なく育ちましたが、両親に死に別れ横山大膳の家で働いていたのです。
照手姫は満重のりりしい顔立ち、澄んだ目、気品のある姿を見て
(きっとこの御方は立派な方に違いない、この方を死なしてはならない)
と、思いました。
大膳の恐ろしいはかりごとを知っている照手姫は何とかして満重に知らせたいと思い、勇気を出して満重に近づきました。
満重にお酒を注ぎながら小さい声で
「このお酒は召し上がってはなりません。毒が・・・・。恐ろしい毒が入っています・・・・。」
と、満重に耳打ちしました。
満重は照手姫をじっと見つめました。
何を言っているのか聞き取れなかったのです。
しかし、お酒を注いでいる照手姫の手が震えています。
満重ははっとしました(これは何かあるぞ)
照手姫の唇がまたかすかに動きました。
「このお酒には、毒が・・・・。」
満重は(そうか、そうだったのか、ありがとう)と、心の中で照手姫に感謝し、そっと照手姫の手を握ると盃を置きました。
毒酒であることを知った満重はお酒を飲まないようにしました。
そのうちに、大膳がやって来て、しつこく勧めました。
「もう充分にいただきました」
と、断っていましたが、あまり断るとかえって怪しまれると思い、盃を少しだけ唇に付けてみました。
それを見て家来たちも盃を口に運びました。
すると、どうでしょう。
満重は、たちまち身体中がしびれて、そのまま倒れてしまいました。
家来たちも血を吐いて死んでしまいました。
「うわっはっはっはあ〜 上手くいったわい。者ども着物をはぎ取れ、金を残らず奪ってしまえ!!うわっはっはあ。」
泥棒の家来たちは満重をはじめ十人の家来の着物をはぎ取り、裸にして上野ヶ原に投げ捨ててしまいました。
照手姫は満重が上野ヶ原に捨てられたことを知って悲しみました。
このまま横山の家にいることが、とても恐ろしいことに思えてきました。
(そうだ、こんな恐ろしい家から逃げ出そう)
と決心して、家中が寝静まった頃、照手姫は横山の家をこっそり抜け出しました。
そして、金沢(横浜市金沢区)の六浦というところにたどり着きました。
しかし、ほっとする間もなく数人の荒くれ男たちが迫っていたのです。
それは、横山からの追っ手でした。
「待てーつ、逃がすものかーっ!!」
追っ手は必死で逃げる照手姫をつかまえました。
そして、『油堤』 というところから川の中へ投げ込んでしまいました。(解説:今の侍従橋の所)
油堤はツルツルとした岩が崖のようになっていて、とても這いあがることは出来ません。
長い道のりを一生懸命逃げてきた照手姫は身も心も疲れ切っていました。
水をたっぷりたたえた川は、照手姫をすっぽり飲み込んでしまいました。
普通だったらとても助かりそうにありません。しかし、信心深い照手姫は一心に観音さまにお祈りしました。
すると、どうでしょう。不思議な事に川のほとりに近い千光寺の観音さまが現れて、溺れかけている照手姫を救い出しました。
照手姫を土手の草むらに静かに寝かせると、観音さまの姿は消えてなくなりました。
(解説:千光寺は、侍従橋の近くにありましたが、30年くらい前に、東朝比奈に移りました)
このありさまを初めから終わりまで野島の漁師がただ一人見ていたのです。漁師はあまりに不思議な出来事に驚き、また、感激して照手姫のそばに駈け寄りました。
照手姫の顔はたった今まで水におぼれていたとは思えないほど美しく、清らかでした。
漁師は照手姫のお世話をしようと、野島の家に連れて帰りました。
そして、幾日かして『侍従』という名の照手姫の乳母が、姫を探して、はるばる油堤までやってきました。
その辺りには悲しいうわさが流れていました。
一人の若い姫が悪者たちに川に投げ込まれて、どうしたわけか死体も上がらないというのです。
その話を聞いて侍従は、気も狂うほどに驚き、悲しみました。
そして、とうとう悲しみのあまり、持ってきた照手姫のお化粧道具をその場に置くと、姫のあとを追うように川に飛び込んで自殺してしまいました。
こんな悲しい事があって良いのでしょうか。
その時から、誰言うことなくこの川を乳母の侍従の名をとって『侍従川』と呼ぶようになったのです。
ところで、照手姫は野島の漁師の家でしばらくは幸せに暮らしていました。
ところが、美しい姫に漁師が優しくするのを見て、漁師のおかみさんはいつしか、やきもちをやくようになりました。
そして、何かにつけて照手姫をいじめるようになります。
おかみさんはある日とうとう漁師の留守をみはからって、姫を裏庭の松の木の枝に吊り上げました。
そしてその下に積み上げた、松の枝葉に火をつけていぶし殺そうとしたのです。
(解説:金沢八景のダイエーの近くに姫小島として名前が残っています)
照手姫は誰も恨まずに、目を閉じてただ一心に観音さまにお祈りしました。
するとまたまた不思議な事に、煙は横になびき、火はまもなく消えてしまいました。
「ええぃ、なんということだ。いっそのこと、人買いに売ってしまおう」
やきもちやのおかみさんは、とうとう照手姫を人買いに売ってしまいました。
照手姫はあちこち売られ歩き、落ち着いたところは美濃国(岐阜県)の青墓(あおはか)というところでした。
ところが、ここでも辛く悲しい日々を、再び送らなければならなかったのです。
照手姫は青墓のよろず屋の召使になって、朝な夕な苦しい仕事をさせられていました。
たとえば、六つのかまどをわらの火で一つも消すことなく炊けとか、半里も離れた所にある泉の水を七桶汲んでこいとか、それはそれは難しい仕事を命じられていたのです。
そして、それが出来なければ遊女になれと、責められました。
しかし、照手姫は観音さまにお祈りしながら、くじけないで一生懸命働きつづけました。
さて、話は変わって、ここはえんま大王の前です。
死んだ人を極楽へやるか、地獄へやるかを決めるのがえんま大王の仕事です。
横山に殺されて、息を引き取った満重の十人の家来たちも、揃って、えんま大王の前にやってきました。
えんま大王は、目をかっと開いて十人を睨みつけました。家来たちは、恐ろしくなってぶるぶると震えだしました。
「何をふるえておる。言いたい事があったら言ってみろ。」
とえんま大王が叫びました。家来たちは勇気を出して自分たちが死んだわけを話しました。そして口々に、
「大王さま、どうか私どもの主人をお救い下さい。主人の命をお救い下されば、私どもは、地獄に落ちてもかまいません。どうぞ、お願いします。」
と、熱心に頼みました。
「よろしい。お前たちの主人思いに免じて助けてやろう。お前たちはそろって極楽行きじゃ。」
その晩のこと、藤沢の遊行寺の上人さまの夢枕に、えんま大王の使者が現れて一通の手紙を置いていきました。上人さまが開いてみると、
(上野ヶ原に、十一人の屍が捨てられていて、小栗判官満重だけが助かるみこみがある。熊野の温泉に浸かると助かるであろう。必ず助けるように)
と書いてありました。
さっそく上人さまが弟子たちを上野ヶ原に使わしてみると、そこには犬が吠え、カラスが群がっていました。えんま大王の使者からの手紙のとおり十一人の屍が横たわっており、小栗判官満重だけには、かすかに息がありました。上人さまの弟子たちによって、満重は餓鬼阿弥(がきあみ・生者と死者の間のもの)というみにくい姿のまま土車に乗せられました。
胸には、
(この者を熊野の温泉に浸けて元の姿にせよ)
という、えんま大王が書いた札をぶら下げていました。
土車に乗せられた満重は、餓鬼阿弥の姿となっておりましたので、道行く人々も、仏の供養のためにと、手を貸して土車を曳いてくれました。
満重を乗せた土車は東海道を上り、やがて青墓のよろず屋の前にさしかかりました。
照手姫は餓鬼阿弥を見て、満重とは知らずに、満重の供養の為にと土車を曳くことを思いたちました。
よろず屋には、三日間だけ暇をもらったのです。
それ以上の暇はもらうことは出来ませんでしたが、照手姫は赤い袴をはき、巫女の姿になり、手に笹の葉を持ちました。そして、満重のことを思いながら一生懸命、土車を曳いたのです。
土車は青墓から近江・大津・関寺とたどり、玉屋の門の前まで来ました。
そこで、照手姫は餓鬼阿弥とともに、しんみりと一夜を過ごしました。
三日間の暇の終わらないうちに、よろず屋に戻らなければなりません。
照手姫は後ろ髪ひかれる思いで、満重ともわからない餓鬼阿弥に別れを告げて行きました。
餓鬼阿弥を乗せた土車は、なおも京・大坂を通り、熊野を目指して進んで行きました。山道に近づき車道がなくなりました。そこからは山伏にかつがれて山道を行き、とうとう目的地に着きました。
満重はそこで七色に変わる温泉に四十九日間浸かりました。
そして、元の身体に戻ることが出来ました。
月日は流れ、照手姫のいる青墓にもいつしか春が巡ってきました。
そんなある日、よろず屋の家に大変立派なお侍が訪れました。
それは、小栗判官満重でした。
満重はあれから都の将軍さまにお目にかかり、何もかもお話しました。
そして、将軍さまのお力を借りて、小栗城を立派に立て直すことが出来たのです。
その後、命の恩人である美しい照手姫を、あちらこちらと探し歩いていたのです。
桜の花の散る下で、二人はやっとの思いで巡り会えることが出来ました。
手を取り合って喜び、今までのことを話し合い、すべてが明らかになりました。
満重と照手姫は、それからは死ぬまで変わることのない愛に結ばれて幸せに暮らしました。
つらかった過去を忘れることなく、いつまでも観音さまを大切にしたということです。
照手姫を侍従川からお救いになり、また松いぶしからもお救いになった観音様は、あれから数百年たった今でも六浦の千光寺に照手姫の「身代り観音」として大切に祀られております。千光寺は、今は、東朝比奈に場所が移っています。
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【照手姫にまつわる伝承】(相模国風土記稿より)
・侍従川 侍従川は、光伝寺の前をながれる川なり。俗に伝うところは、照手姫が乳母侍従と云う女、身を投げたところなり。
・油堤 油堤は、六浦橋の南、千光寺の前にある堤なり。侍従が照手姫の粧具を持ち、この堤まで尋ね来たり。その行方知らずを悲しみ、ここで身を投げたるとなり。
・千光寺 日光山と号す。本尊観音是照手姫が守本尊なり。ふすられし時、身代に立ちと也。三十三年に開帳す。
・照手姫松 瀬戸橋の北にあって、西の岸より出崎に一株の松あり。里人云う照手姫を、いぶした時の松木の跡。延宝八年(1680)の大風に吹き折れて根松のみ在す。
【藤沢の照手姫伝説】
小栗判官と照手姫伝説
http://shonan-fujisawa.jp/archives/H190612.html
小栗判官・照手姫
http://www1.fujisawa-kng.ed.jp/kyobun-c/index.cfm/11,3279,68,html
藤沢と『小栗判官』
https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2920
説経節『小栗判官』成立再考
https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2634
遊行寺(小栗判官照手姫の墓)
http://www.jishu.or.jp/yugyouji-keidai/ogurihangan-terutehime
2010年3月11日木曜日
8)私が子どもだった頃【大道町内会 鈴木 巽】
その頃、お寺は子どもたちの遊び場でした。お寺の縁側の下の砂地にアリ地獄の巣がありました。アリ地獄は、「うすばかげろう」の幼虫が中に隠れているスリバチ型の穴で、落ち込んだアリなどを捕まえて体液を吸うのです。アリの代わりに、草でつついたりして、いたずらして遊びました。そんな、いたずら坊主たちに、当時、子どものいなかった、お寺の奥さんがよく菓子をくれました。
また、宝樹院の境内には、今は廃寺になっていますが、私たちが常福寺と呼んでいたお寺の小さなお堂がありました。私が小学校低学年の頃、夏休みになると大道の小学生は全員このお堂に夏季学習帳を持って集まり、仏様の前で上級生の指導で勉強しました。夏の楽しい寺子屋でした。私たちが何も知らずに勉強させて貰ったこのお堂の仏様は、平成3年に解体して修理をしたときに、像内の納入品から平安末期の久安3年(1143年)に造立された平安佛であるという証拠が見つかり、この阿弥陀三尊像は神奈川県の重要文化財に指定されました。
私の子どもの頃に大道に建っていた家は、関東大震災で建て直した家以外は、ほとんどが茅葺屋根でした。当時の大道は村として茅場と呼ばれる山を所有していて、毎年、1月中頃になると村人総出で茅刈りに行きました。子どもたちは、昼近くなると親たちが食べる弁当を細い山道を一列になって届けに行きながら、帰りは急な斜面になっている茅場で遊びました。刈り取った茅は夕方大人たちが体が隠れる様な大きな束を背負って山から降りてきて、村の1ケ所に積み上げておき、屋根替えの必要な家から村人総出で葦き替えを手伝いました。葦き替えは屋根屋と呼ばれた人たちを中心に仕上げていく、当時30数軒の家しかなかった村の一大行事でした。
大道の中心を通っていた旧鎌倉街道は、当時、道幅4m弱の砂利道で現在よりも低い位置にありました。六浦原宿線と呼ばれる現在の道路は、当時大船に海軍の施設を作ったので昭和17年から終戦時にかけて、横須賀と大船を結ぶ軍用の道路として突貫作業で改修が行われました。戦前の大道は鼻欠地蔵あたりまで見渡す限りの水田地帯でした。現在の大道橋の上流50m位の所に田圃に引く水をせき止めた大堰があり、堰の上側の水溜まりで子どもたちは泳ぐことが出来ました。更に上流にもう一つ堰がありました。大堰の近くの奥まった谷戸には渇水期の用水のための大池があり、秋になると、この大池の栓を外して水を抜きました。中にはウナギや小魚がいっぱいいて、子どもたちは夢中で捕ったものです。
下流にある山王橋からその上流の現在の二の橋あたりまでの侍従川の南側の川沿い一帯に桃の果樹園があり、春にはー面ピンクの花に覆われました。夏が近くなると、稲の苗作りから田植の時期です。侍従川の堰から導いた水路からの水を、持ち主の違う田圃へ出来るだけ均等に流れ込む様に配分するのが大人たちの仕事でした。小学校から帰ってきた子どもたちは、自分の家の田圃への水がちゃんと流れ込んでいるか見守りに行きました。「我田引水」とは、この様なところからきた言葉なのでしょう。それほど侍従川の水は田圃にとって大切なものであり、大道に住む人たちの命の源でした。
昔の侍従川は大道の辺りでは、もっと浅く、川幅も狭く曲がりくねっている所もあり、童謡に出てくる様な、のどかな清流でした。山王橋から東側は、もう少し山側に入り込んでいた記憶があります。当時の侍従川は、大雨の時は氾濫することもありました。私も侍従川を背にした所に住んでいますので、床上浸水の体験があります。しかし、その後の大改修、下水道の完備、この川を愛してくれる人たちの努力で、氾濫することもなくなり、以前にも増して多くの生き物のいる清流に戻ってくれたことは本当に嬉しいことです。
私の子どもの頃の忘れ難い思い出として、昭和10年代のことがあります。昭和12年に中国と日中戦争が始まり、それが拡大して16年には太平洋戦争に突入しました。その間、近所の大人が兵隊として、次々に出征して行きました。町内の子どもたちも、朝早く、日の丸の小旗を振りながら金沢八景駅まで送って行きました。出征する人は電車の最後尾の窓を開けて、見送ってくれた人たちに必死に両手を振って出発して行きました。私の兄3人も次々に出征しました。太平洋戦争も敗色の濃くなった昭和20年7月、三男の兄がフィリピンのルソン島で戦死したとの公報が届きました。兄の遺留品は何一つ戻ってきませんでした。23歳という若さでした。
米軍の反転攻勢で遂に日本国内への空爆が始まりました。艦載機による機銃掃射、サイパン島を発進した米軍のB29重爆撃機の爆弾や焼夷弾攻撃による攻撃です。昭和20年3月10日には東京大空襲、6月29日の横浜大空襲、そして6月10日には、この金沢区富岡地区周辺がB29による空襲を受けました。当時富岡周辺には横浜海軍航空隊や、日本飛行機、石川島航空工業、大日本兵器などの民間の軍需工場が取り囲む様にありました。横浜海軍航空隊には水上艇が配備され、日本飛行機では練習機を、石川島航空工業では零戦のエンジンを作っていました。私は石川島航空工業で働いていました。
その日は、9時前後だったでしょうか、空襲警報がなり、大多数の従業員は会社の前の山にある大きな防空壕に入りましたが、私は防火隊のメンバーだったので工場内にいました。B29の編隊が見えたと思ったら、いきなりヒューンという音がしましたので、目の前の防火用水のコンクリートの陰に倒れ込みました。大きな爆発音の後、静まるのを待って、様子をうかがうと、隣の日本飛行機、横浜海軍航空隊の方で、黒煙が上がっておりました。その日の夕方、毎日利用していた杉田の駅まで行くと、電車は不通になっていましたので、仕方なく線路の上を金沢ハ景に向けて歩きました。
富岡駅のすぐ手前の短いトンネルに近づき、トンネルの中に止まっている2輛連結の電車を見ますと、窓ガラスが1枚もありませんでした。この日の空襲警報で、この電車は乗客を乗せたまま、このトンネル内に避難していました。そのトンネルの両方の入口に爆弾が落ちて、その爆風で被害にあったのでした。トンネルの中にいた60名の乗客の中の40名くらいの人が即死してしまったそうです。
富岡地区では、この爆弾による空襲で59戸の家屋が全壊して、全焼した家屋は12戸もありました。また、その時の直撃弾でも多くの死傷者が出ました。トンネル内で被害にあった人も含めて、この空襲で亡くなった、たくさんの人々は富岡の慶珊寺(けいさんじ)の広い境内一面に並べられたそうです。
宝樹院の境内にも、太平洋戦争で戦死した大道の人たちの立派な慰霊の碑があります。墓誌によりますと24名の戒名が刻まれています。亡くなった年齢を見ますと多くの人が20歳代の若い人たちです。早いもので戦争が終わってから、65年という歳月が経ち、平和な世の中になりました。しかし、この平和は、この戦争で亡くなった人たちの貴重な犠牲の上で成り立っていると言うことを忘れてはいけません。これから、どんなことがあっても、この悲惨な戦争だけは、絶対に避けなければならないと強く思っています。
7)私が子どもだった頃【高宗台町内会 副会長 廣瀬 健】
昭和25年〜30年頃の頃から、戦地から引き上げたり、畑地を造成した住宅に入居した人たちで大道の人口が増えはじめました。大道小学校の教室も足りなくなり、午前と午後に分けて二部授業が行われました。私が入学した時には、ひとクラス60名で6クラスでしたが、卒業する時には7クラスに増えていました。教室不足は、3年生くらいまで続きました。
人口が増えたため侍従川に生活廃水が流入して川の汚れが目立ち始めたのも、この時期のように思います。また、六浦原宿線は大部分が舗装されていませんでした。瀬戸の京浜急行のガードから、現在のスーパー横浜屋の辺りまで一車線のコンクリート舗装でしたが、それより先の西大道、朝比奈の相武隧道、上郷、原宿まで、あちこちに大きな穴があく悪路が続いていました。冬の乾燥期や雨の降らない時などは、砂埃が舞い上がり、道路の近くの家は随分迷惑したようでした。
しかし、交通量は少なくて、たまに神奈川中央バスや米軍の車が走る程度でした。バスの中には木炭車も混じっており、鼻欠地蔵の前で運転手が降りて車の後方にある釜に木材を補給して朝比奈の峠をのぼって行く光景を覚えています。地元の住人が田畑への往来にリヤカーをひいて通るのどかな田舎道で、お年寄りが通りすがりに、モグラに掘り返された荒れた道を道普請している姿もありました。私の家から畑や田圃越しに六浦原宿線や大道小学校が見渡すことができて、たまに、追浜にあった富士モーターという自動車工場で修理するための軍用の車や消防車などの緊急の車が通ると珍しくて、兄と走って見に行ったものです。
大道は、武陽金澤八勝夜景の図など廣重が描いた金沢八景の景勝地をはじめ、現在は、かなりの部分を埋め立てられましたが平潟湾が近くにあり、海と山が隣接する極めて自然豊かな地でありました。その中でも、大道から朝比奈にかけて続く畑や田圃、人家と田畑や山・丘がうまく調和している里山、そこを流れる侍従川は、私をはじめ子どもたちの絶好の遊び場でした。遊びの種類はたくさんあって、そこに存在するあらゆる物を遊び道具に使いました。侍従会の会報にも先輩諸氏からたくさん紹介されていますが、侍従川での魚捕り遊び、里山での戦争ごっこ遊び、田畑周辺でのかくれんぼなど数え切れない遊びが脳裏によみがえり、私自身が懐かしく当時を想い起こして、読ませて頂きました。
この紙面で一つご紹介したいことは、私たちの住む町の呼び方や名称が時代とともに変わっているということです。例えば六浦は、今では、むつうらと言いますが「むつら」であり、大道は地元の方は「でいどう」と言っていました。朝比奈は朝夷奈(あさいな)、高舟は高宗(たかぶね)という地名が依然は使われていました。この六浦周辺がどのように変わって行ったかを、後で幾つかご紹介します。
まだまだ、沢山の想い出や経験した事柄があり、侍従会の会員である甥の隆夫から投稿を依頼され、当時のことを出来るだけ多く披露するつもりでしたが、事前準備もないまま記述に及び、取り留めのない内容となりましたがご容赦ください。失われた部分が多い、わが故郷を「ふるさと侍従川に親しむ会」の方々により今後も維持管理して頂くことが、残された「自然を守る手段」であると、私も確信しています。橋上から孫の手を引いて侍従川を覗く方々に「昔の侍従川はもっと綺麗でした」などと言い訳を言わなくても良い状態に、現在の侍従川は甦っております。日頃の地道な活動には大変感謝しております。誠にありがとうございます。会員各位には、長くこの地に住む者として心より御礼申し上げます。
【六浦(むつら)の主な変遷】
1147 文久3年 常福寺の阿弥陀堂造営(阿弥陀三尊像は県の重要文化財で今は宝樹院が管理)
1241 文治2年 朝夷奈三郎義秀が一晩で切り開いたという逸話がある朝比奈切通しが開かれる
1422 応永29年 称名寺造営費用の捻出目的で関所を設置(エールコーポレーションの辺り)
1873 明治6年 三分学舎(六浦小学校の前身)が開校する
1889 明治22年 三分村と釜利谷村が合併、後に朝比奈村が加わり六浦荘村ができる
1900 明治33年 池子トンネル(六浦―逗子間)が開通
1911 明治44年 白山道トンネル(六浦―釜利谷間)が開通
1930 昭和5年 湘南電気鉄道(今の京浜急行 黄金町―浦賀、金沢八景―逗子間)が開通
1944 昭和19年 六浦原宿線・相武隧道が開通
1944 昭和19年 大道小学校が大道国民学校として開校
1956 昭和31年 朝比奈―鎌倉間の道路が開通
1963 昭和38年 大道中学校が開校(六浦中学校から分校)
1978 昭和53年 高舟台小学校が開校(大道小学校から分校)
6)私が子どもだった頃【大道町内会 会長 小泉 隆良】
朝寝坊していると友だちにセミとり用のクモの巣を取られてしまうので誰よりも早く起きて取りに行きました。針金で丸くしたものにクモの巣を巻きつけてそれでセミを取るのです。クモの巣は、べとべとしているので一度かかるとセミは逃げられません。 夏休みは、みんなで勉強すると言って出かけるのですが、すぐに遊びたくなって、親には勉強は終わったと言って野島や乙艫海岸に海水浴に行ってしまうこともよくありました。
その頃の遊びは、ベイごま、ビー玉、めんこ、缶けり、騎馬戦、さし網、パチンコなどでした。ベイごまは、学校では禁止されていましたが、人気のある遊びでした。パチンコは二股になった木にゴムを取り付けて作ります。チームに別れて戦争ごっこをやるのです。
私は、小学4年の頃、パチンコで左目の上を負傷して失明寸前になってしまいました。かなり危ない遊びをやっていたんですね。さし網というのは、地面に穴を3つか4つ掘って、そこに遠くからボールを転がして点数を競うというものです。ボールが逃げないように網を張ったことからさし網と呼んでいたのだと思います。
侍従川にではウナギやハゼなど、色々な魚を獲りました。川のそばを掘って水がたまる場所を作るとそこに魚が入ります。その中にカーバイトを放り込んで火をつけると魚が苦しがって水面にあがって来るので、それを捕まえるのです。当時の侍従川には、ホタルが沢山いました。
夜、ホタルを捕りに行くのですが、注意が必要でした。ホタルの光の中にヘビの目玉が混じっているからです。下手に手を出すとヘビに指を噛まれるので木の棒で確かめながらホタルを捕った覚えがあります。
冬は、集会所の近くで凧上げをやって半日過ごしました。その頃は、集会所の回りは一面の田んぼで凧上げをするには格好の場所でした。大道小学校のトンボ池の裏側あたりに、大きな栗の木がありました。それに登って栗を取っていると、栗の木の持ち主のおじさんが出て来て、見つかると怒られるので、3時間もトイレを我慢して木の上にいた苦い経験もあります。
家にいると、外で遊んでこい、と言われるので家の中で遊ぶことはありませんでした。外でめいっぱい遊んで、家に帰るのはいつも夕刻でした。こんな調子で、あまり勉強はしないで就職するまで、毎日楽しく過ごしました。まわりの友だちも同じように遊びまわっていました。
3歳の頃ですが、太平洋戦争で米国の戦闘機が飛来したときに、親に背負われて防空豪へ逃げ込みました。その時に、両手に持っていた、おにぎりを落としてしまったということを、今でも覚えています。それほど、食料が大切な時代でした。
今は、戦争もなく平和で食べ物もたくさんあって、私の子ども時代に比べたらずいぶん良い時代になりました。その分、塾や学校の勉強がたいへんだと思いますが、子どもたちには、自然が豊かな大道で元気に遊んでもらいたいと思います。
5)私が子どもだった頃【ふるさと侍従川に親しむ会 廣瀬隆夫】
祖父から聞いた話ですが、明治・大正時代の侍従川は、舟を浮かべて海から物を運べるくらい深かったそうです。関東大震災の時に三浦半島全体が隆起したために今の水量になったということです。泥牛橋の近くに昔の川の石垣が見えていますが、昔は川幅が今よりずっと狭くて大雨が降ると氾濫することがありました。伊勢湾台風の時にも氾濫して、今は空き地になっていますが、そのころ建っていた県営住宅の床上まで水が来たことを覚えています。改修工事をして川幅を広げてからは氾濫することはなくなりました。
大雨が降った後は、上流から色々なものが流れて来ました。時には大池(ブックオフの奥にありました)から錦鯉が流れて来たりしました。当時は侍従川に鯉は住んでいなかったので珍しかったのです。ゴミが流されてきれいになった侍従川に入ってメダカやフナを獲るのも楽しみでした。千歳園の横に下水用の土管が埋まっていますが、その工事現場で友だちと大きなウナギを捕まえたことがあります。1週間くらい池に放して泥をはかせた後に、父にさばいてもらって蒲焼きを作ってもらって食べました。蒸さずに焼いたので堅かったのですが、始めて食べた蒲焼きの味は今でも忘れられません。
大道中学の裏山は、道が鎌倉の天園まで続いていて山菜の宝庫でした。春になるとウドやワラビ、ゼンマイ、タラの芽、野生のシイタケなどが採れました。採った山菜は、祖母に料理してもらってワラビ飯などにして食べました。大道中学の奥は深い谷になっていて茅やすすきが一面に生い茂った場所がありました。マムシがたくさんいたのでマムシ谷とも呼ばれていて、子どもが噛まれることもありました。そこでカエルを捕まえて、西大道にあった防火用水でカエルの水泳大会をやって遊びました。
大道中学の横の川は、今では蛍がたくさん住んでいますが、その頃は蛍はいませんでした。私が大道中学に通っていたときに、生物部が南川の田んぼから蛍の幼虫やカワニナをとって来て放しました。今の蛍は、その子孫かもしれません。上流の水源の近くの川底からは清水が湧き出していました。そこには透明な水生エビやゲンゴロウ、ハヤなどがいました。秋になると山から竹を切って、釣り竿にして関東学院の前あたりで、ハゼ釣りをやりました。餌は近くの土をほじくり返して捕まえたミミズです。釣ってきたハゼは昆布巻を作ってもらって食べました。竹といえば、八つ手の実を玉にした竹の鉄砲もよく作りました。上手にできた竹鉄砲を打つとパンと驚くほど大きな音がしました。
東京オリンピックが終わって日本経済の高度成長が始まったころから、山や谷が崩されて大道の地形が大きく変わって行きました。大道中学の谷戸も埋め立てられました。侍従川の改修工事も行われましたが、その頃から川が汚れてきました。最初に川の底が、気持ちの悪い昆布のような藻に覆われました。次にイトミミズやアカムシ(ユスリ蚊の幼虫)が増えました。川全体が悪臭を放って、生き物の姿が全く見えなった時期もありました。
そんな侍従川が本当にきれいになりました。下水道を整備したり、侍従会のメンバーや近隣の小学生による葦の植栽や清掃活動の効果がでてきたのだと思います。今では侍従川は緑に覆われ、ゲンジボタル、ハグロトンボ、クロメダカ、カルガモなどのたくさんの生き物が住むようになりました。
侍従川は照手姫伝説の時代から何百年も流れ続けています。これからもずっと枯れることはないでしょう。子どもたちが大人になった時に、侍従川で、こんな魚を捕ったとか、友だちとこんなことをして遊んだ、などの楽しい思い出を次の世代の子どもたちに語り継いでもらえたら良いなあ、と思っています。
4)私が子どもだった頃【ふるさと侍従川に親しむ会 長橋 輝明】
昔は弟の面倒見も兄たちの役割の一部というような時代でしたから、弟の私をおんぶしながら遊んでいたようです。でも、おんぶしていると、「かけっこ」や。「おにごっこ」が出来ないので、そういう時は弟の私を木に縛ってから遊んだようです。
現在の住まいの六浦には3歳のころに引っ越ししてきました。遊んだのは裏山が中心だったと記憶しています。「かくれんぼ」や「ぼかんすいらい※」などで遊んだことをよく覚えています。その遊びのグループには必ずリーダーがいて、遊びやらなにやらを仕切る役割をしていました。
※「ぼかんすいらい」という遊び、多分「母艦・水雷」からきている名前だと想像されますが、2グループに分かれて、相手を捕まえるようなゲームです(水雷の役割)。基地は目立つ大きな木などが使われます(母艦の役割)。追いかけられた人が基地にもどると相手はその人を捕まえることが出来ないのです。
その当時はみんな、おこづかいなどはもらえる時代ではなかったので、柿、栗など季節の果物をとって食べたりしてました。とりに行く場所やとり方などはグループのリーダーが教えてくれるのです。遊びの場所や相手はいつでも自然でした。遠浅な乙舳(おっとも)海岸※の海水浴や潮干狩り、平潟湾での潮干狩りやはぜ釣りも楽しみのひとつでした。この頃の平潟湾では、この湾付近でとれた海苔を干している光景がたくさん見られました。いまではあまり見かけませんね。
※乙舳海岸:今は埋め立てられてしまい、埋め立て後は現在の「海の公園」になっています。
小学校高学年の夏はほとんど逗子の海岸で遊んでました。遠泳で、浪子不動から鎧摺(あぶずり)までよく泳いだものです。ここでもリーダーの役割は大きく、まだ泳げないメンバーは、鎧摺の港の出入り口の堤から投げられます。必死に泳いで、自然と泳げるようになる訳です。みんな、自然を相手に、そして仲間とともに遊んでいたのですね。
自然と遊んだりすることによって、自然の大切さも知ります。また、仲間と遊んだりすることによって、仲間でいることの楽しさ・仲間意識、その仲間本意の正義感、自分の欲求があっても時にはがまんや忍耐が必要であったりして、適切に自分をコントロールしながら対人的なスキルを持てるようにということを自然と学んでいたのでしょうね。
都市化が進んだ現在は、自然も遊び場も少なくなってきて、子どものグループそのものが作られなくなっていて、社会的な対人スキルを学ぶ機会も少なくなってしまっています。侍従会では友だちや違う世代のおじさんおばさんたちも一緒に、自然に触れながら楽しく活動をしていきたいと思いますね。すこしでも自然に触れながら対人スキルも学べれば幸いです。
3)私が子どもだった頃【ふるさと侍従川に親しむ会 相川 元治】
その侍従川は、私の子どもの頃(昭和20年代)は本当に素晴らしい遊び場でした。現在の泥牛橋あたりは水草が生え、ハヤやフナがたくさん居ました。また侍従川は昭和40年代の改修前は川幅も今より4mも狭く護岸も全て石垣ではなく、土手のままのところも多くあり自然に恵まれていました。
我が家のあたりは先ほど述べましたように石垣で、その石垣の隙間にはうなぎがいたようです。うなぎの採り方は、うなぎ針という長い大きな釣り針に糸をつけ、50cmくらいの細い竹竿の先にその針を取り付け、針には餌としてミミズをつけ、石垣の隙間にその竿を差し込んで採っていたようです。残念ながら私は一度も釣れたことはありませんでしたが釣れた人もいました。
もう一つは「カイボリ」と呼んで石垣に対し「コの字形」に土や石で土手を作って囲み、水を堰き止め、囲った土手の中の水をバケツなどで掻い出すと、水の無くなった石垣の中からフナや泥鰌等が出てきてそれを捕ることが出来たのです。私は良く覚えていませんがカイボリの最大の目的は「メリュー」と呼んだうなぎの稚魚を捕ることだったそうで、沢山のメリューが捕れたようです。今だったらこのメリューは高く売れたかもしれませんが、池で飼ったりして自然消滅していたようです。
この他に私の一番の思い出は、我が家には叔父が作ってくれた2m強の木製の小船があり、それを上潮になると漕ぎ出して遊んだことです。下流に下って遠くは京急逗子線の鉄橋近くまで下って行くのです。川辺には多くのギャラリーが見ており子ども心にも得意だったようです。また上潮ですからイナ(鯔の子どもをイナと呼んでいます)が群れを作っていましたのでその群れに向かって手製のモリ(ヤス)を投げイナを捕ったことを覚えています。
その他に船には小型のライトを取り付け、暗くなった時のため明かりが点くようにしていました。とにもかくにも私が子どもの頃の侍従川は絶好の遊び場で、魚捕りや昆虫捕りの毎日で勉強はそっちのけの毎日を楽しく過ごしたことを思い出します。
2)私が子どもだった頃【ふるさと侍従川に親しむ会 副会長 中山 吉雄】
水門の内側にも葦原があり、大きな池がありました(地区センターの所)。池の左側は宮川、池の向こう側は畑、新田に向かって二本の水路があり、その先に水門、なかは水路が真っすぐのび、その左右は一面ハス田(金沢区役所・君ヶ崎近くまで)が広がり、夏にはハスの花が綺麗に咲いていました。水路には、ボラ・フナ・ウナギ・コイ・ハゼ・メダカ・カダヤシ・ザリガニなど多くの生き物がいて、毎日のように取りに行きました。カダヤシ(当時は、メダカと思っていました。)は卵で産まれるのではなく、稚魚で産まれたと記憶しています。
宮川の左側、ダイエーより先(京急金沢検車区・マンション)の所も一面葦原があり、ここではカモ猟をしていました。中学時代は、宮川の堤防を通って金沢中学校まで通学しました。台風で堤防が破壊すると大変、16号を通って行ったこともあります。釜利谷側、金沢中から手子神社・釜利谷南県住の所まで、ここも田と畑、緑いっぱいでした、称名寺にも遊びに行き、銀杏を拾いました。
裏山(坊主山)の山頂には八角堂があり、何時の事か入り口が壊され、荒らされ持ち去られたのでしょう、中には何もありませんでした。称名寺の山から行く先もわからぬまま、今の西柴町方向に山道を遊びまわったり、春には山百合の球根を取りに行きました。この辺も見渡す限り山、緑いっぱい。
また、釜利谷東、赤井より六国峠に、能見台跡〜円海山〜天園など友達と何度も行きました。六国峠から見た景色は、富岡西・栄区方面は山が連なっており、峠からは海も見えました。小学校の時、一度だけ近所の中学生1人と子ども6〜7人で、六国峠を通り鎌倉まで行き、長谷観音、大仏で遊び、鶴岡八幡宮に行き、帰りは朝比奈峠に。峠の途中でだんだん暗くなり始め、下りた時は薄暗く(誰も親に行く事を告げてなかった)、親たちは近所の子どもが誰もいないので心配で、外で待っていました。家に着いた時は暗くなり、全員怒られたことを思い出します。
そうそう、海にも行きました。今の海の公園は、当時は海。金沢海岸通りの町屋町辺りに松の木が何本も残っています。ここに砂浜があり、波打ち際でした。この海で、バケツ一杯アサリを何度も取りました。当時は有料で、掘っているとおじさんが徴収に来たものです。野島にも行きましたが、当時は野島橋がなく、渡し舟で渡った覚えがあります。子どもの頃は川や泥亀新田、海、緑の山々と今思えば素晴らしい自然の中で思い切り遊んでいました。
1)私が子どもだった頃【ふるさと侍従川に親しむ会 副会長 長野 政治】
侍従川ではウナギ釣りをして遊びました。当時の侍従川は石垣式で、ウナギの寝床となっていたのです。ウナギは細い竹棒に糸と針を付けた竿を石垣の穴の中に入れて釣ります。ウナギ釣りのプロの人が釣るのを見て、子どもなりに真似をしたのです。私もそうやってウナギを釣りました。他にも侍従川ではフナやハヤ、ハゼ、カニなどを採って遊びました。特にハゼは、自分の庭にある竹に糸と浮きと針を付けた即席の釣り竿を持って諏訪の橋に行き釣ったのを覚えています。釣ったハゼは持ち帰り天ぷらにして食べました。
しかし私たちの遊びはそれだけに留まりませんでした。私が遊び仲間としていたのは『戦争ゴッコ』です。お宮の回りや光伝寺の庭に行き、竹で作った刀で立ち合いをしたり、木の枝を鉄砲代わりにしたりしました。しかし度が過ぎ近所の雷鳴オヤジに叱られることも度々でした。
第二次大戦が始まると畑や田んぼが埋められました。山は火薬発破で崩され、杭木を置いて固定したレールをトロッコが走りました。今の大道小学校も一度埋めた所に建てられたのです。当時は平屋建てで学校としては使用されず軍が使っていました。そしてすぐ横には二階建ての工員寮が五棟も建てられました。
また、軍用道路もできました。道路用地は強制移動させられ、今の四号線である大道の他、西大道にも住宅ができました。私は西大道にできたお風呂屋に入浴に行った思い出があります。こうして山は削られ田んぼや畑も埋められ、私たちの遊び場もどんどんなくなっていきました。しかし、それでも私たちは僅かに残された自然の中で小屋造りや戦争ゴッコをして遊んだのでした。
高等科一年に上がり少し経つと学従動員として工場へ応援に行きました。日本製鋼所へ機械の作業の見習として、朝学校より歩いて行く毎日を過ごした記憶があります。そして昭和二十年八月十五日、終戦とともに学従動員も終了したのでした。
2010年3月1日月曜日
12)私が子どもだった頃 ふるさと侍従川に親しむ会顧問 廣瀬一雄
清流侍従川の思い出
廣瀬一雄
朝比奈峠を水源として、大道(だいどう)を縦断し、川(地名)、三艘(さんぞう)を通り平潟湾に注ぐ清流が侍従川 である。その昔、照手(てるて)という高貴な姫が盗賊に追われこの金沢の地で行方知れずになったとき、その乳母の侍従(じじゅう)という人が嘆きのあま り、この川に身を投じたという逸話から侍従川と付けられたという伝説がある。
侍従川は水が清く絶えたことがなく、お陰で大道は大変豊かな村であった。現在は大道中学校のバス停の近くにある、 岩に彫られた風化したお地蔵さんは鼻欠地蔵と言い、相州(今の鎌倉)と武州(今の金沢)の境に肥えた土地争いの仲裁役として建立されたが、争いがなかなか 絶えないのでお地蔵さんが見せしめに、自ら立派な鼻を欠いてしまったと言い伝えられている。
この川はうねうねと曲がりくねり、自然の水の流れそのままの姿をしており、両側は大名竹が生い茂り遠くからでも一 目で川であることがわかる。
川間のネコ柳が白銀色の芽を吹く頃になると侍従川にも春がくる。川の土手にはツクシ、タンポポ、スミレ、レンゲ、 ナズナなど色々な野草でおおわれる。川岸の竹薮ではウグイスが鳴き、セキレイ、カワセミ、カワラヒワ、アオジが飛び交い麦畑ではヒバリが鳴く。
六月になると田圃に水を入れるため大堰が作られる。この頃から川の水が減って子どもたちの川遊びの時期になる。大 堰の下の水たまりにはエビ、フナ、ハヤが沢山いて子どもたちはわれ先に網でとる。
川の下流ではかい堀りが始まる。これは水をせき止めて中の水をかい出して魚を捕る方法でウナギ、ドジョウがよくと れる。七月七夕がすぎ夏祭りが近づく頃、夜、川岸でホタル取りが始まる。夜露で足がびっしょりになる。
八月末頃、大池の水が抜かれる。池の中にはコイ、ウナギがいっぱいいて大人も子どもも夢中になって捕る。これは一 年に一度の楽しみな年中行事である。秋になって水が不要になると大堰が開けられ放水する。水の少なくなった川ではウナギ釣りが行われる。
十月頃、大潮になると諏訪の橋の上でハゼ釣りが行われる。10センチくらいのハゼがよく釣れる。このハゼは竹串に 刺して焼き、お正月の昆布巻用として保存する。チンチンカエズ(黒鯛の子)や白魚も海から上がってくる。秋も深まり稲刈りも終わる頃、雑木林に北風が吹き 抜ける頃、川岸には霜柱が立ち川面は薄氷におおわれて侍従川も冬支度に入る。