2013年3月22日金曜日

私が子どもだった頃 川町内会 小泉元久


私が子どもだった頃           川町内会 小泉元久

私は、大正12年に侍従川の近くで生まれました。家は、侍従橋より50メートルほど川下の侍従川に面したところです。以前、白梅保育園をやっていましたので、そちらをご存知の方が多いかと思います。私が小学生の頃は、白梅公園を取り巻くように畑があり、六浦の消防署より南側は一面の田んぼで、その中を京浜急行が逗子に向かって走っていました。まだ、六浦駅はなく、郵便局のあたりに1軒だけ家があったのを覚えています。

昔は、義務教育が小学校まででしたので、近所の子どもたちが集まって遊べるのは、小学校の6年間でした。私たちがよく遊んだところは高橋から下流で、大道まで遠征していくことはありませんでした。私の家より少し下流で三艘川と侍従川が合流していますが、川遊びの中心は、この三艘川でした。三艘川は流れが穏やかで、上流に家がなかったため水がきれいで魚が豊富でした。小学2、3年になると川に入って友だちとフナやハヤを追いかけて遊びました。

大道の子どもたちは、侍従川の上流でカイボリをしてウナギを捕ったと侍従会の会報に書いてありましたが、私は、その様な経験はありませんでした。季節の良いときには家から川に下りてゴカイとかイソメを掘り起こして釣り餌の準備をして、侍従川で釣りをしました。獲物はなんと言ってもハゼで、そのハゼを、その後、自分でどうしたという記憶がありませんので、ただ釣れたときの感覚がおもしろくてやっていたのだと思います。9月のお彼岸の前に捕ったハゼは干してもカビが生えると言われていました。彼岸が過ぎてからのハゼは形が良く、大きいものは祖母が手を尽くして乾燥して保存し、正月の昆布巻きにしてくれました。

また、家にボートがありましたので、満ち潮のとき兄と平場湾の方に出かけて釣りをしたこともあります。その頃の地形は今とはずいぶん違ったものでした。柳町のあたりは海で、野島は平潟町と地続きになっていました。野島橋や夕照橋はありませんでした。瀬ヶ崎の先端の室の木と野島の間は渡し舟がありました。平潟湾には研究用として牡蠣棚があって、そこに魚がよりつくと言うのでボートでよく釣りに行きました。しかし、釣り糸が牡蠣の貝殻に絡みついたり切られたりして困ったことがありました。

魚釣りをして、たくさん釣れたのは、ウナギの子どものメリュウという稚魚でした。糸に絡まって外すのが大変でした。また、頭に角があってぬるぬるするネズッポと言っていたメゴチや餌どろぼうのフグは私たち子どもにとってはどうしようもない獲物でした。メゴチが、てんぷら屋さんの良い材料になるということは、ずいぶん後になって知りました。

当時、子ども心に不思議に思っていたことはボラの子のイナのことです。イナは上げ潮のとき今でも群れをなして侍従川に上がってきますが、そのイナを釣ったり獲ったりしている場面を見たことも聞いたこともありませんでした。逃げ足の速い魚であったことと、食べても美味しくないということで、魚としてあまり評価されていなかったのかもしれません。

ハゼで昆布巻きを作ってくれた明治3年(1870)生まれの祖母の話によりますと、金沢・六浦は、お嫁に来た頃は三方山に囲まれていたということでした。横浜、横須賀、逗子、鎌倉のどの方面に行くのにも山道で、六浦は陸の孤島のような場所でした。しかし、それゆえ風光明媚な風景が残る静かな村だったようです。鎌倉時代に開通した朝比奈峠を通って鎌倉に出る道が唯一の道らしい道でした。陸路はそのような状況でしたが波静かな平潟湾がありましたので、船による交通は発達していたようです。今から100年も前の話ですが、祖母は富岡から舟に乗って六浦に着き、侍従川を上って嫁入りしたと聞いています。現在の人にはとても想像が出来ないことでしょう。

その頃は、小学校も少なく、私の同級生の中には室の木や瀬ヶ崎から歩いて六浦小学校に通っていた生徒もいました。小学校のI、2年生にとって、これだけ長い距離を徒歩で通学することは、雨の日などは大変だっただろうなと思います。時代を重ねるに従って、景色や私たちの生活は、ずいぶん変わりましたが、子どもたちの旺盛な好奇心に変わりはないと思います。平成の子どもたちも、侍従川で思う存分遊んで色々な経験をしてもらいたいと思います。

私が子どもだった頃 安斎純雄


私が子どもだった頃

安斎純雄 (元・東京都職員)

今は空き地になっている大道一丁目15-16番地の県営住宅に移り住んだのは昭和26年、私が3歳の時でした。30軒の新しい住宅には、私たちのような団塊の世代を中心に子どもが沢山いて、一日中にぎやかに遊び回っていました。

小学生になると、高宗(今の高舟)から流れてくる浅い農業用水路で、メダカ、エビ、ヤゴを捕まえたりしました。道路脇の岩窪には、サワガニもいて、夏にはトンボ捕りに夢中になりました。住宅地を回り込んだ用水路が合流する付近の侍従川は、浅めで小さな子でも川岸に下りることができました。そこで、うなぎの稚魚がたくさん群れていたこともありました。

当時の侍従川は溢れやすく、この付近は、大雨と深夜の満潮とが重なって住宅数件が床上浸水の被害を受けたことがありました。濡れた家財を乾かしている光景は今でもよく憶えています。

高学年になると、カブトムシが集まるクヌギの木を探し当てたり、青木製作所の裏山の大池へフナ釣りに行き、カメを釣ったこともありました。当時、廃墟だった鎌倉霊園のお堂の地下壕を探検したり、六浦駅の近くの友達と徒歩で逗子の海まで往復したこともありました。

中学は1年間、六浦中学校に通いました。校庭脇の侍従川は、干潮時は川底のヘドロが臭う川になっていました。大道分校に移り大道中学校の3年生になると、部活動が始まり生物部の顧問の先生が、三年の男子3人を葉山の立石海岸の磯の観察に連れて行ってくれました。綺麗な海で潮が引いた磯には、八景の海では見られない色鮮やかな小魚や貝類がとても珍しいかったです。

このような楽しい経験から大学は水産学部に進みました。魚や海の好きな仲間の集まるクラブに所属し、安房小湊の実習場には度々潜りに行きました。大学祭では大きなビニールシートに砂を敷き岩を配置して4畳半くらいの潮溜まりを再現し、磯の生き物や綺麗な小魚を放して楽しんでもらったりもしました。

その頃読んだ津田松苗著「汚水生物学」には、水の汚れ具合に応じ、多様な微生物が棲みつき、汚れを食べて水を浄化してくれる。これを上手に応用することで、元の清流に戻すことができる、という仕組みが書かれていました。高校の科学部で、横須賀の平作川の水質調査をした経験からも水質汚濁の改善に関心を持つようになり、水質検査職員として東京都に就職しました。東京都では多摩川の浄化のプロジェクトにも参画しました。

4年前に東京都を定年退職し、現在は、神奈川県秦野市に住んでおります。秦野の湧水群が市内に点在するなど水の汚れと無縁の土地柄も何かの御縁と思いながら、名水巡りの市内散策などをして、のんびりと暮らしております。

2011年3月6日日曜日

11)<私が子どもだった頃> 大道町内会 長島太郎

<私が子どもだった頃> 大道町内会 長島太郎

私の家は、宝樹院という真言宗のお寺の石段を降りたところにあります。そんな関係で「てらのした」という屋号で呼ばれています。大道では昔から、「わきのやと」とか、「みょうど」などの屋号で呼び合っていました。昔は、近所付き合いも今より盛んでしたし、同じ姓が多かったので、このように、あだ名のようなもので呼びあっていたのでしょう。

私は、大正5年に、大道に生まれました。これから、私が子どもだった頃の様子をお話したいと思います。今は、大道小学校や高舟小学校、六浦小学校などのたくさんの小学校がありますが、私が小さい頃は、この辺には、三分学校という学校しかありませんでした。三分学校は六浦の交番の近くの北辰神社の横の道をまっすぐ行って、侍従川を渡った右側にありました。私が小学1年に入学した年の9月に関東大震災という大きな地震がありまして、学校は、跡形もなく壊れてしまいました。三分学校に通っていた子どもたちは、宝樹院、上行寺、泥牛庵などのお寺に分かれて勉強を続けました。校舎が新しく建て替えられて、学校に通えるようになるまでに3年もかかりました。

そのころの金沢の地形は、今とはまるで違っていて、六浦から室の木にかけての場所や柳町のあたりは全て海で広い湾になっていました。その三分学校から東側の地域は、広い砂浜になっていまして、海の水が、ひたひたと押し寄せるような場所でした。上行寺の前の道路を渡ったところのコンビニの近くには、今では家がたくさん建っていますが、このあたりは、昔は砂浜で、塩を作る場所でした。今では、塩場住宅という地名になっています。今の国道16号のあたりは松林になっていて、そのあたりからずっと砂浜が続いていました。松林には鈴虫がたくさんいて、良く捕まえに行きました。この砂浜で、くみ上げた海水を舟に乗せて侍従川の上流に運び、それぞれの家の軒先で大きなナベで煮詰めて塩を作っていました。

侍従川は、葦や竹が生えた自然のままの川で、地面からすぐの所に水があり、今よりもだいぶ水量がありました。満潮の時には、山王橋のあたりまで、潮が上がってきました。かなり深くて、子どもたちが川に飛び込んで水遊びをすることも出来ました。侍従川は、田んぼに水を引いたり、生活用水に使われていただけでなく、いろいろな生活物資を運ぶ交通手段にも使われていました。私が最も印象に残っているのは、肥やし舟です。昔のトイレは、今のように水洗ではなく、便器の下に穴を掘って糞尿を溜めて、いっぱいになると、それをくみ上げるというような原始的なものでした。その糞尿を肥やしと言っていました。肥やし舟は、くみ上げた糞尿を上流の大道に運んでいました。大道には、広い耕地に畑や田んぼがありましたので、その肥料に使っていました。

今の大道郵便局のあたりに、大堰と呼ばれる大きな堰がありました。侍従川の渇水期に田んぼに水を入れるために板で川を、せき止めて堰を作ってありました。広さは5〜6メートル四方もあり、深さが2メートルもありました。そこで泳ぎの練習をやりました。大堰には、フナやどじょう、ウナギがたくさんいました。ウナギとりには、長い棒の先に餌の付いた糸をつないだ特別な道具を使いました。ウナギの棲んでいる穴のなかに餌と針を入れると、おもしろいように大きなウナギが釣れました。釣ったウナギは、家で料理してもらって食べました。また、侍従川にはホタルがたくさんいて、蚊帳の中にホタルを放して遊んだものです。

私の家の近くの堂山と呼ばれる山に洞窟が掘ってあり、その先に大きな縦穴がありました。最近は行っていませんが今でもあると思います。ハシゴを使わなければ下りれないほど深い穴で、底は6畳くらいの広さがありました。何のために掘られた穴なのかは分かりませんが、当時は、何にも使われていなくて子どもたちの遊び場になっていました。子どもたちは、この場所をそこめんと呼んでいました。当時、そこめんのあった堂山のまわりは、荒れ放題で、廃寺になった常福寺の墓石などが倒れて散乱していました。堂山の近所で、あまりに病人が続けて出るので、宝樹院の住職に頼んで供養してもらいました。墓石もきれいに直して、毎日、掃除をしました。それからは、病人が出ることもなくなりました。

宝樹院の階段を降りて車道に出る所に関所の跡がありました。今では、車庫になっていますが、私が小さな頃は、四角い窪地になっていて、関所の立て札が立っていました。昔は金沢から鎌倉に行く人たちからお金をとって、お寺の修繕などに使っていたと言われています。

若かった頃の話ですが、私は戦時中、技術者として横須賀海軍工廠という軍事工場に勤めていました。戦争が終わって階級社会から開放されたとき、初めて人間というものが見えました。人は本来誰でも平等で、それぞれが何かしらの得意分野を持っているのだと悟りました。前向きな気持ちで、その得意分野を伸ばすために努力をし、活かしていくことが大切だと思います。

大道は豊かな自然環境が今でもたくさん残っています。それが、この土地の人の特徴である穏やかな人格を作っていると思います。また、大道には関所跡があり、近くには金沢八景や金沢文庫の称名寺など多くの史跡があります。横浜というと都会的で賑やかなイメージがありますが、こういう静かな場所も横浜の中に残していきたいと思います。

10)≪私が子どもだった頃≫  ふるさと侍従川に親しむ会 会長 相川 澄夫

≪私が子どもだった頃≫  ふるさと侍従川に親しむ会 会長 相川 澄夫

昭和20年代から30年代が私の子ども時代でした。高舟台、湘南八景はまだ雑木山でしたし、ハードオフの谷戸は全部田んぼ、青木製作所の奥に高梨牧場がありその奥は田んぼさらに奥にため池がありました。大道中学の谷戸も全部田んぼで山際を細い水路が流れていました。南川の奥も田んぼでその奥に染谷という牧場があり山は雑木山でした。平潟湾は柳町もなく、花火大会が開かれたりしていました。

六浦中学は市大の中の旧兵舎を使っていて、関東学院も木造の旧海軍の建物のようでした。瀬戸には今のローズマンションのあたりに竜宮館というヘルスセンターのような温泉と宴会のできる施設ができました。野島は冬場になると海苔を干すだれが並び、路地はあさりの殻が敷き詰められ海には海苔ひびが立って、いなかの漁師町でした。

大道小の裏門のいまのココスのあたりにはベンケイガ二が護岸の鷹取石の隙間に無数にいて道路にまでゾロゾロといっぱい、はい出してきていました。白黒テレビが町内の床屋に入り力道山のプロレスや栃錦、若乃花、朝潮、吉葉山、などの相撲を何十人という人だかりで見たり、三輪自動車が走り、バスはボンネットバスで車掌さんが乗っていました。相武隧道の向こうは八軒谷戸の地名どおり八軒くらいの農家しかなく環状4号は未舗装のデコボコ道で、神奈中バスにのると穴ぼこの道で天井まで跳ね上がる位でした。

進駐軍をあちこちに見かけ、京急の六浦駅が木造ですぐ横に踏切ふみきりがありました。戦後の海外からの引揚者用の寮も5~6カ所あり空襲で焼けだされた人たちや戦後、台湾、満州、中国、朝鮮などからの引き上げてきた大勢の人たちがこのまちに生活するようになってきました。まさに『3丁目の夕日の時代、トトロの森の時代』でした。

大道小学校が学年8クラス約400名以上いて低学年のときは2部授業で、早番、遅番があり私たちにとっては遊ぶ時間がいくらでもありました。何をして遊んだか思い出しながら、四季に分けて書いてみました。

春は侍従川でめだか、ふな、どじょう、たんぼではおたまじゃくし、ザリガニを捕まえ、ザリガニの身でまたザリガニを釣り、麦の畑ではあおい麦の穂をとって中の実を噛んでチュウインガムだなんて言っていました。山に行ってはサクランボや桑の実を食べ、口の周りを紫色にして夕方家に帰ったものでした。

夏は町内にあった防火用水の水を消防団のおじさんたちが入れ替えて即席のプールをつくり、町内のガキ大将をはじめみんなが遊びました。暑い盛りになるとあちこちで赤痢がはやったり日本脳炎が発生したり、親たちには汚い川には絶対入って遊んではいけないと言われたものでした。確かに今思い出してみると、下水もなく生活排水のたれ流しの川だった侍従川は草ぼうぼうで、汚なく臭いどぶ川だった思います。

それでも隠れて川やたんぼに行ってカエルを捕まえて、おしりに麦の茎やストローを刺さしておもいっきり息を吹き込みカエルのお腹なかが風船みたいに膨らみパ-ンと破裂させたり、アカガエルの身は焼くとうまいと聞き、捕まえてたき火で焼いて食べたり、へびのしっぽを持ってぐるぐる振り回してみたり、トカゲのしっぽをちょん切ったり、毎日が新しい発見で楽しい体験でした。

今のスーパー横浜屋のところが大堰のところまで田んぼで、夜には蛍がいくらでも飛んでいて、うちわで叩くとおもしろいほど捕まえられ、家に持ち帰り蚊帳の中に放して遊んだりもしました。トンボどろと言っていたオニヤンマをとることが自慢だったり、セミ、かぶとむし、クワガタ、カミキリムシなど昆虫はいくらでも身の回りにいました。知り合いの若い衆が川の上流でトラックのバッテリーの電極を水の中に入れて魚を感電させてうなぎを捕まえていたのを見たこともありました。

秋には山ではあけび、栗もぎ 栗の渋をむいてコリコリした生の実を食べたり、民家の柿がたくさん実りどこの家の柿が渋いか甘柿かよく知っていました。秋の十五夜のお月見には、線路で電車に轢かせて平になった5寸くぎを竹の棒の先に着けたモリで、暗くなってからよその家のお月見のお団子やお供えの果物などそおっといただきに行き、ときには失敗して見つかってどなられたりスリル満点の遊びでした。

冬は12月も暮れが近くなると原っぱで凧揚に夢中でした。より高くながい時間飛ばせるか、こま回し、竹うま、など年長のガキ大将から教えてもらいました。めんこ、ビー玉、ベーゴマ、ちゃんばら、戦争ごっこ、等々、書いていると子どもの頃のあの子この子と顔や名前が浮かび、今は60から70歳になる皆がなつかしく思い出されます。

2010年9月5日日曜日

侍従川の名前の由来

照手姫は、横山という盗賊に『油堤(あぶらつづみ)』 というところから川の中へ投げこまれてしまいました。
(油堤は、現在の侍従橋から見下ろす辺りで、近くに千光寺というお寺がありました。千光寺は、今は、東朝比奈に場所が移っています)

油堤はツルツルとした岩が崖のようになっていて、とても這いあがることは出来ません。普通だったらとても助かる状況では、ありません。しかし、信心深い照手姫は一心に観音さまにお祈りしました。

すると、どうでしょう。不思議な事に川のほとりに近い千光寺の観音さまが現れて、溺れかけている照手姫を救い出しました。照手姫を土手の草むらに静かに寝かせると、観音さまの姿は消えてなくなりました。

このありさまを、初めから終わりまで野島の漁師がただ一人見ていました。漁師はあまりに不思議な出来事に驚き、漁師は照手姫のお世話をしようと、野島の家に連れて帰りました。

そして、幾日かして『侍従』という名の照手姫の乳母が、姫を探して、はるばる油堤までやってきました。

その辺りには悲しいうわさが流れていました。
一人の若い姫が悪者たちに川に投げ込まれて、どうしたわけか死体も上がらないというのです。

その話を聞いて侍従は、気も狂うほどに驚き、悲しみました。そして、とうとう悲しみのあまり、持ってきた照手姫のお化粧道具をその場に置くと、姫のあとを追うように川に飛び込んで自殺してしまいました。

こんな悲しいことがあって良いのでしょうか。
その時から、誰言うことなく、この川を照手姫の乳母の侍従の名をとって『侍従川』と呼ぶようになったのです。


これが侍従川の名前の由来です。今から、600年以上も前のお話です。

9)私が子どもだった頃 川町内会 小泉元久氏

私が子どもだった頃           川町内会 小泉元久

私は、大正12年に侍従川の近くで生まれました。家は、侍従橋より50メートルほど川下の侍従川に面したところです。以前、白梅保育園をやっていましたので、そちらをご存知の方が多いかと思います。私が小学生の頃は、白梅公園を取り巻くように畑があり、六浦の消防署より南側は一面の田んぼで、その中を京浜急行が逗子に向かって走っていました。まだ、六浦駅はなく、郵便局のあたりに1軒だけ家があったのを覚えています。

昔は、義務教育が小学校まででしたので、近所の子どもたちが集まって遊べるのは、小学校の6年間でした。私たちがよく遊んだところは高橋から下流で、大道まで遠征していくことはありませんでした。私の家より少し下流で三艘川と侍従川が合流していますが、川遊びの中心は、この三艘川でした。三艘川は流れが穏やかで、上流に家がなかったため水がきれいで魚が豊富でした。小学2、3年になると川に入って友だちとフナやハヤを追いかけて遊びました。

大道の子どもたちは、侍従川の上流でカイボリをしてウナギを捕ったと侍従会の会報に書いてありましたが、私は、その様な経験はありませんでした。季節の良いときには家から川に下りてゴカイとかイソメを掘り起こして釣り餌の準備をして、侍従川で釣りをしました。獲物はなんと言ってもハゼで、そのハゼを、その後、自分でどうしたという記憶がありませんので、ただ釣れたときの感覚がおもしろくてやっていたのだと思います。9月のお彼岸の前に捕ったハゼは干してもカビが生えると言われていました。彼岸が過ぎてからのハゼは形が良く、大きいものは祖母が手を尽くして乾燥して保存し、正月の昆布巻きにしてくれました。

また、家にボートがありましたので、満ち潮のとき兄と平場湾の方に出かけて釣りをしたこともあります。その頃の地形は今とはずいぶん違ったものでした。柳町のあたりは海で、野島は平潟町と地続きになっていました。野島橋や夕照橋はありませんでした。瀬ヶ崎の先端の室の木と野島の間は渡し舟がありました。平潟湾には研究用として牡蠣棚があって、そこに魚がよりつくと言うのでボートでよく釣りに行きました。しかし、釣り糸が牡蠣の貝殻に絡みついたり切られたりして困ったことがありました。

魚釣りをして、たくさん釣れたのは、ウナギの子どものメリュウという稚魚でした。糸に絡まって外すのが大変でした。また、頭に角があってぬるぬるするネズッポと言っていたメゴチや餌どろぼうのフグは私たち子どもにとってはどうしようもない獲物でした。メゴチが、てんぷら屋さんの良い材料になるということは、ずいぶん後になって知りました。

当時、子ども心に不思議に思っていたことはボラの子のイナのことです。イナは上げ潮のとき今でも群れをなして侍従川に上がってきますが、そのイナを釣ったり獲ったりしている場面を見たことも聞いたこともありませんでした。逃げ足の速い魚であったことと、食べても美味しくないということで、魚としてあまり評価されていなかったのかもしれません。

ハゼで昆布巻きを作ってくれた明治3年(1870)生まれの祖母の話によりますと、金沢・六浦は、お嫁に来た頃は三方山に囲まれていたということでした。横浜、横須賀、逗子、鎌倉のどの方面に行くのにも山道で、六浦は陸の孤島のような場所でした。しかし、それゆえ風光明媚な風景が残る静かな村だったようです。鎌倉時代に開通した朝比奈峠を通って鎌倉に出る道が唯一の道らしい道でした。陸路はそのような状況でしたが波静かな平潟湾がありましたので、船による交通は発達していたようです。今から100年も前の話ですが、祖母は富岡から舟に乗って六浦に着き、侍従川を上って嫁入りしたと聞いています。現在の人にはとても想像が出来ないことでしょう。

その頃は、小学校も少なく、私の同級生の中には室の木や瀬ヶ崎から歩いて六浦小学校に通っていた生徒もいました。小学校のI、2年生にとって、これだけ長い距離を徒歩で通学することは、雨の日などは大変だっただろうなと思います。時代を重ねるに従って、景色や私たちの生活は、ずいぶん変わりましたが、子どもたちの旺盛な好奇心に変わりはないと思います。平成の子どもたちも、侍従川で思う存分遊んで色々な経験をしてもらいたいと思います。

照手姫ものがたり

【照手姫ものがたり】

むかし、今から六百年以上も前の室町時代の頃のお話です。
その頃、足利持氏という関東管領が鎌倉に住んでいました。

関東管領というのは都に住んでいる将軍さまの代わりに、関東地方を治めるという大切な役目をする人のことです。

ところで、将軍さまには子供が無くて世継ぎに困っていました。
持氏は、

「よい折じゃ、息子の安王丸か春王丸のどちらかを何とかして将軍にしてしまおう」

と、たくらみ、自分の子を将軍にする運動を密かに始めました。

さて、常陸の国に小栗判官満重という侍がおりました。
満重は智恵も勇気もあり、その上、心の正しい人でしたので持氏のたくらみに賛成しませんでした。

持氏は自分のたくらみに賛成しない満重が邪魔になったので、小栗城を攻め滅ぼすことにしました。

「や〜っ、や〜っ!!」

と大声で呼ばわりながら土煙を上げて、持氏の家来たちは小栗城を取り囲みました。
満重たちは勇ましく戦いましたが、何十倍もの敵にはかないません。
とうとう、小栗城は落ちてしまいました。

「ひとまず三河の国(愛知県)へ落ち延びよう」

と満重は十人の家来をつれて敵の囲いの中を逃れ出ました。
それから間もなく、十一人の旅人が相州路(神奈川県の道)を歩いておりました。
これが満重たちの仮の姿だったのです。

満重たちが藤沢の宿まで来た時には夜になってしまいました。
そこで、『横山』 という、宿屋に泊まることにしました。(解説:今の戸塚のあたりだったようです)
ところが宿屋の主・横山大膳は、この辺りを荒らしまわる泥棒の親分だったのです。
大膳は満重たちが旅の姿はしていても、立派なお侍であることに気づきました。

「しめしめ、良い獲物じゃわい」

とつぶやくと、横山大膳は満重たちを一番良い部屋に通し、お酒を勧めました。

横山大膳は満重たちが酔いの回ったところをみはからって『鬼鹿毛(おにかげ)』 という、日本一の暴れ馬を連れて来ました。

「お侍さま、この馬は近寄ると人をも食い殺すという暴れ馬ですが、なんとか大人しくさせて戴けないでしょうか」

と満重に話しかけてきました。
横山大膳は酔っている満重が馬に乗りそこなって、大怪我をするか死ぬことにならないかと、考えたのです。
満重は

「良い馬じゃ!」

と言って飛び乗りました。
満重は馬乗りの名人だったのです。
庭先を自由に乗り回し曲芸までやってのけました。
あまりに見事な満重の手綱さばきに横山の者たちもびっくりしてしまいました。

満重を自分たちの力でやっつけるのは難しい、と、考えました。
そこで、横山大膳は、ひそひそと相談して

「お酒の中に毒を入れて殺してしまおう」

ということになりました。

横山大膳は美しく着飾った女たちを呼び、満重たちに毒の入ったお酒を勧めさせました。

ところで、女たちの中にひときわ美しい娘がおりました。
その名を照手姫といいました。照手姫は立派な武家の娘にうまれ何不自由なく育ちましたが、両親に死に別れ横山大膳の家で働いていたのです。

照手姫は満重のりりしい顔立ち、澄んだ目、気品のある姿を見て

(きっとこの御方は立派な方に違いない、この方を死なしてはならない)

と、思いました。
大膳の恐ろしいはかりごとを知っている照手姫は何とかして満重に知らせたいと思い、勇気を出して満重に近づきました。
満重にお酒を注ぎながら小さい声で

「このお酒は召し上がってはなりません。毒が・・・・。恐ろしい毒が入っています・・・・。」

と、満重に耳打ちしました。
満重は照手姫をじっと見つめました。
何を言っているのか聞き取れなかったのです。
しかし、お酒を注いでいる照手姫の手が震えています。

満重ははっとしました(これは何かあるぞ)

照手姫の唇がまたかすかに動きました。

「このお酒には、毒が・・・・。」

満重は(そうか、そうだったのか、ありがとう)と、心の中で照手姫に感謝し、そっと照手姫の手を握ると盃を置きました。
毒酒であることを知った満重はお酒を飲まないようにしました。
そのうちに、大膳がやって来て、しつこく勧めました。

「もう充分にいただきました」

と、断っていましたが、あまり断るとかえって怪しまれると思い、盃を少しだけ唇に付けてみました。
それを見て家来たちも盃を口に運びました。
すると、どうでしょう。

満重は、たちまち身体中がしびれて、そのまま倒れてしまいました。
家来たちも血を吐いて死んでしまいました。

「うわっはっはっはあ〜 上手くいったわい。者ども着物をはぎ取れ、金を残らず奪ってしまえ!!うわっはっはあ。」

泥棒の家来たちは満重をはじめ十人の家来の着物をはぎ取り、裸にして上野ヶ原に投げ捨ててしまいました。

照手姫は満重が上野ヶ原に捨てられたことを知って悲しみました。
このまま横山の家にいることが、とても恐ろしいことに思えてきました。

(そうだ、こんな恐ろしい家から逃げ出そう)

と決心して、家中が寝静まった頃、照手姫は横山の家をこっそり抜け出しました。

そして、金沢(横浜市金沢区)の六浦というところにたどり着きました。
しかし、ほっとする間もなく数人の荒くれ男たちが迫っていたのです。
それは、横山からの追っ手でした。

「待てーつ、逃がすものかーっ!!」

追っ手は必死で逃げる照手姫をつかまえました。
そして、『油堤』 というところから川の中へ投げ込んでしまいました。(解説:今の侍従橋の所)

油堤はツルツルとした岩が崖のようになっていて、とても這いあがることは出来ません。
長い道のりを一生懸命逃げてきた照手姫は身も心も疲れ切っていました。
水をたっぷりたたえた川は、照手姫をすっぽり飲み込んでしまいました。

普通だったらとても助かりそうにありません。しかし、信心深い照手姫は一心に観音さまにお祈りしました。
すると、どうでしょう。不思議な事に川のほとりに近い千光寺の観音さまが現れて、溺れかけている照手姫を救い出しました。
照手姫を土手の草むらに静かに寝かせると、観音さまの姿は消えてなくなりました。
(解説:千光寺は、侍従橋の近くにありましたが、30年くらい前に、東朝比奈に移りました)

このありさまを初めから終わりまで野島の漁師がただ一人見ていたのです。漁師はあまりに不思議な出来事に驚き、また、感激して照手姫のそばに駈け寄りました。
照手姫の顔はたった今まで水におぼれていたとは思えないほど美しく、清らかでした。

漁師は照手姫のお世話をしようと、野島の家に連れて帰りました。

そして、幾日かして『侍従』という名の照手姫の乳母が、姫を探して、はるばる油堤までやってきました。

その辺りには悲しいうわさが流れていました。
一人の若い姫が悪者たちに川に投げ込まれて、どうしたわけか死体も上がらないというのです。
その話を聞いて侍従は、気も狂うほどに驚き、悲しみました。

そして、とうとう悲しみのあまり、持ってきた照手姫のお化粧道具をその場に置くと、姫のあとを追うように川に飛び込んで自殺してしまいました。

こんな悲しい事があって良いのでしょうか。
その時から、誰言うことなくこの川を乳母の侍従の名をとって『侍従川』と呼ぶようになったのです。
 
ところで、照手姫は野島の漁師の家でしばらくは幸せに暮らしていました。

ところが、美しい姫に漁師が優しくするのを見て、漁師のおかみさんはいつしか、やきもちをやくようになりました。
そして、何かにつけて照手姫をいじめるようになります。

おかみさんはある日とうとう漁師の留守をみはからって、姫を裏庭の松の木の枝に吊り上げました。
そしてその下に積み上げた、松の枝葉に火をつけていぶし殺そうとしたのです。
(解説:金沢八景のダイエーの近くに姫小島として名前が残っています)

照手姫は誰も恨まずに、目を閉じてただ一心に観音さまにお祈りしました。
するとまたまた不思議な事に、煙は横になびき、火はまもなく消えてしまいました。

「ええぃ、なんということだ。いっそのこと、人買いに売ってしまおう」

やきもちやのおかみさんは、とうとう照手姫を人買いに売ってしまいました。

照手姫はあちこち売られ歩き、落ち着いたところは美濃国(岐阜県)の青墓(あおはか)というところでした。
ところが、ここでも辛く悲しい日々を、再び送らなければならなかったのです。

照手姫は青墓のよろず屋の召使になって、朝な夕な苦しい仕事をさせられていました。
たとえば、六つのかまどをわらの火で一つも消すことなく炊けとか、半里も離れた所にある泉の水を七桶汲んでこいとか、それはそれは難しい仕事を命じられていたのです。
そして、それが出来なければ遊女になれと、責められました。

しかし、照手姫は観音さまにお祈りしながら、くじけないで一生懸命働きつづけました。

さて、話は変わって、ここはえんま大王の前です。
死んだ人を極楽へやるか、地獄へやるかを決めるのがえんま大王の仕事です。

横山に殺されて、息を引き取った満重の十人の家来たちも、揃って、えんま大王の前にやってきました。
えんま大王は、目をかっと開いて十人を睨みつけました。家来たちは、恐ろしくなってぶるぶると震えだしました。

「何をふるえておる。言いたい事があったら言ってみろ。」

とえんま大王が叫びました。家来たちは勇気を出して自分たちが死んだわけを話しました。そして口々に、

「大王さま、どうか私どもの主人をお救い下さい。主人の命をお救い下されば、私どもは、地獄に落ちてもかまいません。どうぞ、お願いします。」

と、熱心に頼みました。

「よろしい。お前たちの主人思いに免じて助けてやろう。お前たちはそろって極楽行きじゃ。」

その晩のこと、藤沢の遊行寺の上人さまの夢枕に、えんま大王の使者が現れて一通の手紙を置いていきました。上人さまが開いてみると、

(上野ヶ原に、十一人の屍が捨てられていて、小栗判官満重だけが助かるみこみがある。熊野の温泉に浸かると助かるであろう。必ず助けるように)

と書いてありました。

さっそく上人さまが弟子たちを上野ヶ原に使わしてみると、そこには犬が吠え、カラスが群がっていました。えんま大王の使者からの手紙のとおり十一人の屍が横たわっており、小栗判官満重だけには、かすかに息がありました。上人さまの弟子たちによって、満重は餓鬼阿弥(がきあみ・生者と死者の間のもの)というみにくい姿のまま土車に乗せられました。

胸には、

(この者を熊野の温泉に浸けて元の姿にせよ)

という、えんま大王が書いた札をぶら下げていました。

土車に乗せられた満重は、餓鬼阿弥の姿となっておりましたので、道行く人々も、仏の供養のためにと、手を貸して土車を曳いてくれました。

満重を乗せた土車は東海道を上り、やがて青墓のよろず屋の前にさしかかりました。

照手姫は餓鬼阿弥を見て、満重とは知らずに、満重の供養の為にと土車を曳くことを思いたちました
よろず屋には、三日間だけ暇をもらったのです。

それ以上の暇はもらうことは出来ませんでしたが、照手姫は赤い袴をはき、巫女の姿になり、手に笹の葉を持ちました。そして、満重のことを思いながら一生懸命、土車を曳いたのです。

土車は青墓から近江・大津・関寺とたどり、玉屋の門の前まで来ました。

そこで、照手姫は餓鬼阿弥とともに、しんみりと一夜を過ごしました。
三日間の暇の終わらないうちに、よろず屋に戻らなければなりません。

照手姫は後ろ髪ひかれる思いで、満重ともわからない餓鬼阿弥に別れを告げて行きました。

餓鬼阿弥を乗せた土車は、なおも京・大坂を通り、熊野を目指して進んで行きました。山道に近づき車道がなくなりました。そこからは山伏にかつがれて山道を行き、とうとう目的地に着きました。

満重はそこで七色に変わる温泉に四十九日間浸かりました。
そして、元の身体に戻ることが出来ました。

月日は流れ、照手姫のいる青墓にもいつしか春が巡ってきました。
そんなある日、よろず屋の家に大変立派なお侍が訪れました。
それは、小栗判官満重でした。

満重はあれから都の将軍さまにお目にかかり、何もかもお話しました。
そして、将軍さまのお力を借りて、小栗城を立派に立て直すことが出来たのです。
その後、命の恩人である美しい照手姫を、あちらこちらと探し歩いていたのです。

桜の花の散る下で、二人はやっとの思いで巡り会えることが出来ました。
手を取り合って喜び、今までのことを話し合い、すべてが明らかになりました。

満重と照手姫は、それからは死ぬまで変わることのない愛に結ばれて幸せに暮らしました。
つらかった過去を忘れることなく、いつまでも観音さまを大切にしたということです。

照手姫を侍従川からお救いになり、また松いぶしからもお救いになった観音様は、あれから数百年たった今でも六浦の千光寺に照手姫の「身代り観音」として大切に祀られております。千光寺は、今は、東朝比奈に場所が移っています。

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【照手姫にまつわる伝承】(相模国風土記稿より)

・侍従川 侍従川は、光伝寺の前をながれる川なり。俗に伝うところは、照手姫が乳母侍従と云う女、身を投げたところなり。
・油堤 油堤は、六浦橋の南、千光寺の前にある堤なり。侍従が照手姫の粧具を持ち、この堤まで尋ね来たり。その行方知らずを悲しみ、ここで身を投げたるとなり。
・千光寺 日光山と号す。本尊観音是照手姫が守本尊なり。ふすられし時、身代に立ちと也。三十三年に開帳す。
・照手姫松 瀬戸橋の北にあって、西の岸より出崎に一株の松あり。里人云う照手姫を、いぶした時の松木の跡。延宝八年(1680)の大風に吹き折れて根松のみ在す。

【藤沢の照手姫伝説】
小栗判官と照手姫伝説
http://shonan-fujisawa.jp/archives/H190612.html

小栗判官・照手姫
http://www1.fujisawa-kng.ed.jp/kyobun-c/index.cfm/11,3279,68,html

藤沢と『小栗判官』
https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2920

 説経節『小栗判官』成立再考
 https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2634

遊行寺(小栗判官照手姫の墓)
http://www.jishu.or.jp/yugyouji-keidai/ogurihangan-terutehime