2010年9月5日日曜日

侍従川の名前の由来

照手姫は、横山という盗賊に『油堤(あぶらつづみ)』 というところから川の中へ投げこまれてしまいました。
(油堤は、現在の侍従橋から見下ろす辺りで、近くに千光寺というお寺がありました。千光寺は、今は、東朝比奈に場所が移っています)

油堤はツルツルとした岩が崖のようになっていて、とても這いあがることは出来ません。普通だったらとても助かる状況では、ありません。しかし、信心深い照手姫は一心に観音さまにお祈りしました。

すると、どうでしょう。不思議な事に川のほとりに近い千光寺の観音さまが現れて、溺れかけている照手姫を救い出しました。照手姫を土手の草むらに静かに寝かせると、観音さまの姿は消えてなくなりました。

このありさまを、初めから終わりまで野島の漁師がただ一人見ていました。漁師はあまりに不思議な出来事に驚き、漁師は照手姫のお世話をしようと、野島の家に連れて帰りました。

そして、幾日かして『侍従』という名の照手姫の乳母が、姫を探して、はるばる油堤までやってきました。

その辺りには悲しいうわさが流れていました。
一人の若い姫が悪者たちに川に投げ込まれて、どうしたわけか死体も上がらないというのです。

その話を聞いて侍従は、気も狂うほどに驚き、悲しみました。そして、とうとう悲しみのあまり、持ってきた照手姫のお化粧道具をその場に置くと、姫のあとを追うように川に飛び込んで自殺してしまいました。

こんな悲しいことがあって良いのでしょうか。
その時から、誰言うことなく、この川を照手姫の乳母の侍従の名をとって『侍従川』と呼ぶようになったのです。


これが侍従川の名前の由来です。今から、600年以上も前のお話です。

9)私が子どもだった頃 川町内会 小泉元久氏

私が子どもだった頃           川町内会 小泉元久

私は、大正12年に侍従川の近くで生まれました。家は、侍従橋より50メートルほど川下の侍従川に面したところです。以前、白梅保育園をやっていましたので、そちらをご存知の方が多いかと思います。私が小学生の頃は、白梅公園を取り巻くように畑があり、六浦の消防署より南側は一面の田んぼで、その中を京浜急行が逗子に向かって走っていました。まだ、六浦駅はなく、郵便局のあたりに1軒だけ家があったのを覚えています。

昔は、義務教育が小学校まででしたので、近所の子どもたちが集まって遊べるのは、小学校の6年間でした。私たちがよく遊んだところは高橋から下流で、大道まで遠征していくことはありませんでした。私の家より少し下流で三艘川と侍従川が合流していますが、川遊びの中心は、この三艘川でした。三艘川は流れが穏やかで、上流に家がなかったため水がきれいで魚が豊富でした。小学2、3年になると川に入って友だちとフナやハヤを追いかけて遊びました。

大道の子どもたちは、侍従川の上流でカイボリをしてウナギを捕ったと侍従会の会報に書いてありましたが、私は、その様な経験はありませんでした。季節の良いときには家から川に下りてゴカイとかイソメを掘り起こして釣り餌の準備をして、侍従川で釣りをしました。獲物はなんと言ってもハゼで、そのハゼを、その後、自分でどうしたという記憶がありませんので、ただ釣れたときの感覚がおもしろくてやっていたのだと思います。9月のお彼岸の前に捕ったハゼは干してもカビが生えると言われていました。彼岸が過ぎてからのハゼは形が良く、大きいものは祖母が手を尽くして乾燥して保存し、正月の昆布巻きにしてくれました。

また、家にボートがありましたので、満ち潮のとき兄と平場湾の方に出かけて釣りをしたこともあります。その頃の地形は今とはずいぶん違ったものでした。柳町のあたりは海で、野島は平潟町と地続きになっていました。野島橋や夕照橋はありませんでした。瀬ヶ崎の先端の室の木と野島の間は渡し舟がありました。平潟湾には研究用として牡蠣棚があって、そこに魚がよりつくと言うのでボートでよく釣りに行きました。しかし、釣り糸が牡蠣の貝殻に絡みついたり切られたりして困ったことがありました。

魚釣りをして、たくさん釣れたのは、ウナギの子どものメリュウという稚魚でした。糸に絡まって外すのが大変でした。また、頭に角があってぬるぬるするネズッポと言っていたメゴチや餌どろぼうのフグは私たち子どもにとってはどうしようもない獲物でした。メゴチが、てんぷら屋さんの良い材料になるということは、ずいぶん後になって知りました。

当時、子ども心に不思議に思っていたことはボラの子のイナのことです。イナは上げ潮のとき今でも群れをなして侍従川に上がってきますが、そのイナを釣ったり獲ったりしている場面を見たことも聞いたこともありませんでした。逃げ足の速い魚であったことと、食べても美味しくないということで、魚としてあまり評価されていなかったのかもしれません。

ハゼで昆布巻きを作ってくれた明治3年(1870)生まれの祖母の話によりますと、金沢・六浦は、お嫁に来た頃は三方山に囲まれていたということでした。横浜、横須賀、逗子、鎌倉のどの方面に行くのにも山道で、六浦は陸の孤島のような場所でした。しかし、それゆえ風光明媚な風景が残る静かな村だったようです。鎌倉時代に開通した朝比奈峠を通って鎌倉に出る道が唯一の道らしい道でした。陸路はそのような状況でしたが波静かな平潟湾がありましたので、船による交通は発達していたようです。今から100年も前の話ですが、祖母は富岡から舟に乗って六浦に着き、侍従川を上って嫁入りしたと聞いています。現在の人にはとても想像が出来ないことでしょう。

その頃は、小学校も少なく、私の同級生の中には室の木や瀬ヶ崎から歩いて六浦小学校に通っていた生徒もいました。小学校のI、2年生にとって、これだけ長い距離を徒歩で通学することは、雨の日などは大変だっただろうなと思います。時代を重ねるに従って、景色や私たちの生活は、ずいぶん変わりましたが、子どもたちの旺盛な好奇心に変わりはないと思います。平成の子どもたちも、侍従川で思う存分遊んで色々な経験をしてもらいたいと思います。

照手姫ものがたり

【照手姫ものがたり】

むかし、今から六百年以上も前の室町時代の頃のお話です。
その頃、足利持氏という関東管領が鎌倉に住んでいました。

関東管領というのは都に住んでいる将軍さまの代わりに、関東地方を治めるという大切な役目をする人のことです。

ところで、将軍さまには子供が無くて世継ぎに困っていました。
持氏は、

「よい折じゃ、息子の安王丸か春王丸のどちらかを何とかして将軍にしてしまおう」

と、たくらみ、自分の子を将軍にする運動を密かに始めました。

さて、常陸の国に小栗判官満重という侍がおりました。
満重は智恵も勇気もあり、その上、心の正しい人でしたので持氏のたくらみに賛成しませんでした。

持氏は自分のたくらみに賛成しない満重が邪魔になったので、小栗城を攻め滅ぼすことにしました。

「や〜っ、や〜っ!!」

と大声で呼ばわりながら土煙を上げて、持氏の家来たちは小栗城を取り囲みました。
満重たちは勇ましく戦いましたが、何十倍もの敵にはかないません。
とうとう、小栗城は落ちてしまいました。

「ひとまず三河の国(愛知県)へ落ち延びよう」

と満重は十人の家来をつれて敵の囲いの中を逃れ出ました。
それから間もなく、十一人の旅人が相州路(神奈川県の道)を歩いておりました。
これが満重たちの仮の姿だったのです。

満重たちが藤沢の宿まで来た時には夜になってしまいました。
そこで、『横山』 という、宿屋に泊まることにしました。(解説:今の戸塚のあたりだったようです)
ところが宿屋の主・横山大膳は、この辺りを荒らしまわる泥棒の親分だったのです。
大膳は満重たちが旅の姿はしていても、立派なお侍であることに気づきました。

「しめしめ、良い獲物じゃわい」

とつぶやくと、横山大膳は満重たちを一番良い部屋に通し、お酒を勧めました。

横山大膳は満重たちが酔いの回ったところをみはからって『鬼鹿毛(おにかげ)』 という、日本一の暴れ馬を連れて来ました。

「お侍さま、この馬は近寄ると人をも食い殺すという暴れ馬ですが、なんとか大人しくさせて戴けないでしょうか」

と満重に話しかけてきました。
横山大膳は酔っている満重が馬に乗りそこなって、大怪我をするか死ぬことにならないかと、考えたのです。
満重は

「良い馬じゃ!」

と言って飛び乗りました。
満重は馬乗りの名人だったのです。
庭先を自由に乗り回し曲芸までやってのけました。
あまりに見事な満重の手綱さばきに横山の者たちもびっくりしてしまいました。

満重を自分たちの力でやっつけるのは難しい、と、考えました。
そこで、横山大膳は、ひそひそと相談して

「お酒の中に毒を入れて殺してしまおう」

ということになりました。

横山大膳は美しく着飾った女たちを呼び、満重たちに毒の入ったお酒を勧めさせました。

ところで、女たちの中にひときわ美しい娘がおりました。
その名を照手姫といいました。照手姫は立派な武家の娘にうまれ何不自由なく育ちましたが、両親に死に別れ横山大膳の家で働いていたのです。

照手姫は満重のりりしい顔立ち、澄んだ目、気品のある姿を見て

(きっとこの御方は立派な方に違いない、この方を死なしてはならない)

と、思いました。
大膳の恐ろしいはかりごとを知っている照手姫は何とかして満重に知らせたいと思い、勇気を出して満重に近づきました。
満重にお酒を注ぎながら小さい声で

「このお酒は召し上がってはなりません。毒が・・・・。恐ろしい毒が入っています・・・・。」

と、満重に耳打ちしました。
満重は照手姫をじっと見つめました。
何を言っているのか聞き取れなかったのです。
しかし、お酒を注いでいる照手姫の手が震えています。

満重ははっとしました(これは何かあるぞ)

照手姫の唇がまたかすかに動きました。

「このお酒には、毒が・・・・。」

満重は(そうか、そうだったのか、ありがとう)と、心の中で照手姫に感謝し、そっと照手姫の手を握ると盃を置きました。
毒酒であることを知った満重はお酒を飲まないようにしました。
そのうちに、大膳がやって来て、しつこく勧めました。

「もう充分にいただきました」

と、断っていましたが、あまり断るとかえって怪しまれると思い、盃を少しだけ唇に付けてみました。
それを見て家来たちも盃を口に運びました。
すると、どうでしょう。

満重は、たちまち身体中がしびれて、そのまま倒れてしまいました。
家来たちも血を吐いて死んでしまいました。

「うわっはっはっはあ〜 上手くいったわい。者ども着物をはぎ取れ、金を残らず奪ってしまえ!!うわっはっはあ。」

泥棒の家来たちは満重をはじめ十人の家来の着物をはぎ取り、裸にして上野ヶ原に投げ捨ててしまいました。

照手姫は満重が上野ヶ原に捨てられたことを知って悲しみました。
このまま横山の家にいることが、とても恐ろしいことに思えてきました。

(そうだ、こんな恐ろしい家から逃げ出そう)

と決心して、家中が寝静まった頃、照手姫は横山の家をこっそり抜け出しました。

そして、金沢(横浜市金沢区)の六浦というところにたどり着きました。
しかし、ほっとする間もなく数人の荒くれ男たちが迫っていたのです。
それは、横山からの追っ手でした。

「待てーつ、逃がすものかーっ!!」

追っ手は必死で逃げる照手姫をつかまえました。
そして、『油堤』 というところから川の中へ投げ込んでしまいました。(解説:今の侍従橋の所)

油堤はツルツルとした岩が崖のようになっていて、とても這いあがることは出来ません。
長い道のりを一生懸命逃げてきた照手姫は身も心も疲れ切っていました。
水をたっぷりたたえた川は、照手姫をすっぽり飲み込んでしまいました。

普通だったらとても助かりそうにありません。しかし、信心深い照手姫は一心に観音さまにお祈りしました。
すると、どうでしょう。不思議な事に川のほとりに近い千光寺の観音さまが現れて、溺れかけている照手姫を救い出しました。
照手姫を土手の草むらに静かに寝かせると、観音さまの姿は消えてなくなりました。
(解説:千光寺は、侍従橋の近くにありましたが、30年くらい前に、東朝比奈に移りました)

このありさまを初めから終わりまで野島の漁師がただ一人見ていたのです。漁師はあまりに不思議な出来事に驚き、また、感激して照手姫のそばに駈け寄りました。
照手姫の顔はたった今まで水におぼれていたとは思えないほど美しく、清らかでした。

漁師は照手姫のお世話をしようと、野島の家に連れて帰りました。

そして、幾日かして『侍従』という名の照手姫の乳母が、姫を探して、はるばる油堤までやってきました。

その辺りには悲しいうわさが流れていました。
一人の若い姫が悪者たちに川に投げ込まれて、どうしたわけか死体も上がらないというのです。
その話を聞いて侍従は、気も狂うほどに驚き、悲しみました。

そして、とうとう悲しみのあまり、持ってきた照手姫のお化粧道具をその場に置くと、姫のあとを追うように川に飛び込んで自殺してしまいました。

こんな悲しい事があって良いのでしょうか。
その時から、誰言うことなくこの川を乳母の侍従の名をとって『侍従川』と呼ぶようになったのです。
 
ところで、照手姫は野島の漁師の家でしばらくは幸せに暮らしていました。

ところが、美しい姫に漁師が優しくするのを見て、漁師のおかみさんはいつしか、やきもちをやくようになりました。
そして、何かにつけて照手姫をいじめるようになります。

おかみさんはある日とうとう漁師の留守をみはからって、姫を裏庭の松の木の枝に吊り上げました。
そしてその下に積み上げた、松の枝葉に火をつけていぶし殺そうとしたのです。
(解説:金沢八景のダイエーの近くに姫小島として名前が残っています)

照手姫は誰も恨まずに、目を閉じてただ一心に観音さまにお祈りしました。
するとまたまた不思議な事に、煙は横になびき、火はまもなく消えてしまいました。

「ええぃ、なんということだ。いっそのこと、人買いに売ってしまおう」

やきもちやのおかみさんは、とうとう照手姫を人買いに売ってしまいました。

照手姫はあちこち売られ歩き、落ち着いたところは美濃国(岐阜県)の青墓(あおはか)というところでした。
ところが、ここでも辛く悲しい日々を、再び送らなければならなかったのです。

照手姫は青墓のよろず屋の召使になって、朝な夕な苦しい仕事をさせられていました。
たとえば、六つのかまどをわらの火で一つも消すことなく炊けとか、半里も離れた所にある泉の水を七桶汲んでこいとか、それはそれは難しい仕事を命じられていたのです。
そして、それが出来なければ遊女になれと、責められました。

しかし、照手姫は観音さまにお祈りしながら、くじけないで一生懸命働きつづけました。

さて、話は変わって、ここはえんま大王の前です。
死んだ人を極楽へやるか、地獄へやるかを決めるのがえんま大王の仕事です。

横山に殺されて、息を引き取った満重の十人の家来たちも、揃って、えんま大王の前にやってきました。
えんま大王は、目をかっと開いて十人を睨みつけました。家来たちは、恐ろしくなってぶるぶると震えだしました。

「何をふるえておる。言いたい事があったら言ってみろ。」

とえんま大王が叫びました。家来たちは勇気を出して自分たちが死んだわけを話しました。そして口々に、

「大王さま、どうか私どもの主人をお救い下さい。主人の命をお救い下されば、私どもは、地獄に落ちてもかまいません。どうぞ、お願いします。」

と、熱心に頼みました。

「よろしい。お前たちの主人思いに免じて助けてやろう。お前たちはそろって極楽行きじゃ。」

その晩のこと、藤沢の遊行寺の上人さまの夢枕に、えんま大王の使者が現れて一通の手紙を置いていきました。上人さまが開いてみると、

(上野ヶ原に、十一人の屍が捨てられていて、小栗判官満重だけが助かるみこみがある。熊野の温泉に浸かると助かるであろう。必ず助けるように)

と書いてありました。

さっそく上人さまが弟子たちを上野ヶ原に使わしてみると、そこには犬が吠え、カラスが群がっていました。えんま大王の使者からの手紙のとおり十一人の屍が横たわっており、小栗判官満重だけには、かすかに息がありました。上人さまの弟子たちによって、満重は餓鬼阿弥(がきあみ・生者と死者の間のもの)というみにくい姿のまま土車に乗せられました。

胸には、

(この者を熊野の温泉に浸けて元の姿にせよ)

という、えんま大王が書いた札をぶら下げていました。

土車に乗せられた満重は、餓鬼阿弥の姿となっておりましたので、道行く人々も、仏の供養のためにと、手を貸して土車を曳いてくれました。

満重を乗せた土車は東海道を上り、やがて青墓のよろず屋の前にさしかかりました。

照手姫は餓鬼阿弥を見て、満重とは知らずに、満重の供養の為にと土車を曳くことを思いたちました。
よろず屋には、三日間だけ暇をもらったのです。

それ以上の暇はもらうことは出来ませんでしたが、照手姫は赤い袴をはき、巫女の姿になり、手に笹の葉を持ちました。そして、満重のことを思いながら一生懸命、土車を曳いたのです。

土車は青墓から近江・大津・関寺とたどり、玉屋の門の前まで来ました。

そこで、照手姫は餓鬼阿弥とともに、しんみりと一夜を過ごしました。
三日間の暇の終わらないうちに、よろず屋に戻らなければなりません。

照手姫は後ろ髪ひかれる思いで、満重ともわからない餓鬼阿弥に別れを告げて行きました。

餓鬼阿弥を乗せた土車は、なおも京・大坂を通り、熊野を目指して進んで行きました。山道に近づき車道がなくなりました。そこからは山伏にかつがれて山道を行き、とうとう目的地に着きました。

満重はそこで七色に変わる温泉に四十九日間浸かりました。
そして、元の身体に戻ることが出来ました。

月日は流れ、照手姫のいる青墓にもいつしか春が巡ってきました。
そんなある日、よろず屋の家に大変立派なお侍が訪れました。
それは、小栗判官満重でした。

満重はあれから都の将軍さまにお目にかかり、何もかもお話しました。
そして、将軍さまのお力を借りて、小栗城を立派に立て直すことが出来たのです。
その後、命の恩人である美しい照手姫を、あちらこちらと探し歩いていたのです。

桜の花の散る下で、二人はやっとの思いで巡り会えることが出来ました。
手を取り合って喜び、今までのことを話し合い、すべてが明らかになりました。

満重と照手姫は、それからは死ぬまで変わることのない愛に結ばれて幸せに暮らしました。
つらかった過去を忘れることなく、いつまでも観音さまを大切にしたということです。

照手姫を侍従川からお救いになり、また松いぶしからもお救いになった観音様は、あれから数百年たった今でも六浦の千光寺に照手姫の「身代り観音」として大切に祀られております。千光寺は、今は、東朝比奈に場所が移っています。

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【照手姫にまつわる伝承】(相模国風土記稿より)

・侍従川 侍従川は、光伝寺の前をながれる川なり。俗に伝うところは、照手姫が乳母侍従と云う女、身を投げたところなり。
・油堤 油堤は、六浦橋の南、千光寺の前にある堤なり。侍従が照手姫の粧具を持ち、この堤まで尋ね来たり。その行方知らずを悲しみ、ここで身を投げたるとなり。
・千光寺 日光山と号す。本尊観音是照手姫が守本尊なり。ふすられし時、身代に立ちと也。三十三年に開帳す。
・照手姫松 瀬戸橋の北にあって、西の岸より出崎に一株の松あり。里人云う照手姫を、いぶした時の松木の跡。延宝八年(1680)の大風に吹き折れて根松のみ在す。

【藤沢の照手姫伝説】
小栗判官と照手姫伝説
http://shonan-fujisawa.jp/archives/H190612.html

小栗判官・照手姫
http://www1.fujisawa-kng.ed.jp/kyobun-c/index.cfm/11,3279,68,html

藤沢と『小栗判官』
https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2920

 説経節『小栗判官』成立再考
 https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=2634

遊行寺(小栗判官照手姫の墓)
http://www.jishu.or.jp/yugyouji-keidai/ogurihangan-terutehime

2010年3月11日木曜日

8)私が子どもだった頃【大道町内会 鈴木 巽】

お墓の掃除をするために、小高い山の上にある菩提寺の大道の宝樹院の裏山に登ることがあります。山の傾斜地にある墓地の最上段に立って前方を眺めると、夏島、野島山、六浦方面やお伊勢山から遠く釜利谷方面に続く山々がー望出来ます。更に目の前に飛び込んでくる光景は、平地も山の上も無数の家また家、高層の建物の連続で圧倒されます。じっとその場にたたずんで、自分の幼い頃の、のどかな大道の様子や出来事などを思い返してみることがあります。私は昭和の始め、この宝樹院の石段近くの家で生まれました。現在はお寺の裏側に車が登れる道がありますが、その頃は、その坂道はありませんでした。当時は土葬でしたので、お墓に埋葬するために亡くなった人を担いで長い石段を登るのは大変な労力でした。

その頃、お寺は子どもたちの遊び場でした。お寺の縁側の下の砂地にアリ地獄の巣がありました。アリ地獄は、「うすばかげろう」の幼虫が中に隠れているスリバチ型の穴で、落ち込んだアリなどを捕まえて体液を吸うのです。アリの代わりに、草でつついたりして、いたずらして遊びました。そんな、いたずら坊主たちに、当時、子どものいなかった、お寺の奥さんがよく菓子をくれました。

また、宝樹院の境内には、今は廃寺になっていますが、私たちが常福寺と呼んでいたお寺の小さなお堂がありました。私が小学校低学年の頃、夏休みになると大道の小学生は全員このお堂に夏季学習帳を持って集まり、仏様の前で上級生の指導で勉強しました。夏の楽しい寺子屋でした。私たちが何も知らずに勉強させて貰ったこのお堂の仏様は、平成3年に解体して修理をしたときに、像内の納入品から平安末期の久安3年(1143年)に造立された平安佛であるという証拠が見つかり、この阿弥陀三尊像は神奈川県の重要文化財に指定されました。

私の子どもの頃に大道に建っていた家は、関東大震災で建て直した家以外は、ほとんどが茅葺屋根でした。当時の大道は村として茅場と呼ばれる山を所有していて、毎年、1月中頃になると村人総出で茅刈りに行きました。子どもたちは、昼近くなると親たちが食べる弁当を細い山道を一列になって届けに行きながら、帰りは急な斜面になっている茅場で遊びました。刈り取った茅は夕方大人たちが体が隠れる様な大きな束を背負って山から降りてきて、村の1ケ所に積み上げておき、屋根替えの必要な家から村人総出で葦き替えを手伝いました。葦き替えは屋根屋と呼ばれた人たちを中心に仕上げていく、当時30数軒の家しかなかった村の一大行事でした。

大道の中心を通っていた旧鎌倉街道は、当時、道幅4m弱の砂利道で現在よりも低い位置にありました。六浦原宿線と呼ばれる現在の道路は、当時大船に海軍の施設を作ったので昭和17年から終戦時にかけて、横須賀と大船を結ぶ軍用の道路として突貫作業で改修が行われました。戦前の大道は鼻欠地蔵あたりまで見渡す限りの水田地帯でした。現在の大道橋の上流50m位の所に田圃に引く水をせき止めた大堰があり、堰の上側の水溜まりで子どもたちは泳ぐことが出来ました。更に上流にもう一つ堰がありました。大堰の近くの奥まった谷戸には渇水期の用水のための大池があり、秋になると、この大池の栓を外して水を抜きました。中にはウナギや小魚がいっぱいいて、子どもたちは夢中で捕ったものです。

下流にある山王橋からその上流の現在の二の橋あたりまでの侍従川の南側の川沿い一帯に桃の果樹園があり、春にはー面ピンクの花に覆われました。夏が近くなると、稲の苗作りから田植の時期です。侍従川の堰から導いた水路からの水を、持ち主の違う田圃へ出来るだけ均等に流れ込む様に配分するのが大人たちの仕事でした。小学校から帰ってきた子どもたちは、自分の家の田圃への水がちゃんと流れ込んでいるか見守りに行きました。「我田引水」とは、この様なところからきた言葉なのでしょう。それほど侍従川の水は田圃にとって大切なものであり、大道に住む人たちの命の源でした。

昔の侍従川は大道の辺りでは、もっと浅く、川幅も狭く曲がりくねっている所もあり、童謡に出てくる様な、のどかな清流でした。山王橋から東側は、もう少し山側に入り込んでいた記憶があります。当時の侍従川は、大雨の時は氾濫することもありました。私も侍従川を背にした所に住んでいますので、床上浸水の体験があります。しかし、その後の大改修、下水道の完備、この川を愛してくれる人たちの努力で、氾濫することもなくなり、以前にも増して多くの生き物のいる清流に戻ってくれたことは本当に嬉しいことです。

私の子どもの頃の忘れ難い思い出として、昭和10年代のことがあります。昭和12年に中国と日中戦争が始まり、それが拡大して16年には太平洋戦争に突入しました。その間、近所の大人が兵隊として、次々に出征して行きました。町内の子どもたちも、朝早く、日の丸の小旗を振りながら金沢八景駅まで送って行きました。出征する人は電車の最後尾の窓を開けて、見送ってくれた人たちに必死に両手を振って出発して行きました。私の兄3人も次々に出征しました。太平洋戦争も敗色の濃くなった昭和20年7月、三男の兄がフィリピンのルソン島で戦死したとの公報が届きました。兄の遺留品は何一つ戻ってきませんでした。23歳という若さでした。

米軍の反転攻勢で遂に日本国内への空爆が始まりました。艦載機による機銃掃射、サイパン島を発進した米軍のB29重爆撃機の爆弾や焼夷弾攻撃による攻撃です。昭和20年3月10日には東京大空襲、6月29日の横浜大空襲、そして6月10日には、この金沢区富岡地区周辺がB29による空襲を受けました。当時富岡周辺には横浜海軍航空隊や、日本飛行機、石川島航空工業、大日本兵器などの民間の軍需工場が取り囲む様にありました。横浜海軍航空隊には水上艇が配備され、日本飛行機では練習機を、石川島航空工業では零戦のエンジンを作っていました。私は石川島航空工業で働いていました。

その日は、9時前後だったでしょうか、空襲警報がなり、大多数の従業員は会社の前の山にある大きな防空壕に入りましたが、私は防火隊のメンバーだったので工場内にいました。B29の編隊が見えたと思ったら、いきなりヒューンという音がしましたので、目の前の防火用水のコンクリートの陰に倒れ込みました。大きな爆発音の後、静まるのを待って、様子をうかがうと、隣の日本飛行機、横浜海軍航空隊の方で、黒煙が上がっておりました。その日の夕方、毎日利用していた杉田の駅まで行くと、電車は不通になっていましたので、仕方なく線路の上を金沢ハ景に向けて歩きました。

富岡駅のすぐ手前の短いトンネルに近づき、トンネルの中に止まっている2輛連結の電車を見ますと、窓ガラスが1枚もありませんでした。この日の空襲警報で、この電車は乗客を乗せたまま、このトンネル内に避難していました。そのトンネルの両方の入口に爆弾が落ちて、その爆風で被害にあったのでした。トンネルの中にいた60名の乗客の中の40名くらいの人が即死してしまったそうです。

富岡地区では、この爆弾による空襲で59戸の家屋が全壊して、全焼した家屋は12戸もありました。また、その時の直撃弾でも多くの死傷者が出ました。トンネル内で被害にあった人も含めて、この空襲で亡くなった、たくさんの人々は富岡の慶珊寺(けいさんじ)の広い境内一面に並べられたそうです。

宝樹院の境内にも、太平洋戦争で戦死した大道の人たちの立派な慰霊の碑があります。墓誌によりますと24名の戒名が刻まれています。亡くなった年齢を見ますと多くの人が20歳代の若い人たちです。早いもので戦争が終わってから、65年という歳月が経ち、平和な世の中になりました。しかし、この平和は、この戦争で亡くなった人たちの貴重な犠牲の上で成り立っていると言うことを忘れてはいけません。これから、どんなことがあっても、この悲惨な戦争だけは、絶対に避けなければならないと強く思っています。

7)私が子どもだった頃【高宗台町内会 副会長 廣瀬 健】

私は、太平洋戦争の最中、日本各地がB29という名前の米軍機の襲撃を受け始めた昭和19年(1944)に、大道に生まれました。この辺りには、古くから続く旧家が33軒ありました。物心がつく前には戦争は終わっていましたので、戦争中のことは全く分かりませんが、戦後の荒廃した故郷、大道のことは、今でもはっきりと覚えています。

昭和25年〜30年頃の頃から、戦地から引き上げたり、畑地を造成した住宅に入居した人たちで大道の人口が増えはじめました。大道小学校の教室も足りなくなり、午前と午後に分けて二部授業が行われました。私が入学した時には、ひとクラス60名で6クラスでしたが、卒業する時には7クラスに増えていました。教室不足は、3年生くらいまで続きました。

人口が増えたため侍従川に生活廃水が流入して川の汚れが目立ち始めたのも、この時期のように思います。また、六浦原宿線は大部分が舗装されていませんでした。瀬戸の京浜急行のガードから、現在のスーパー横浜屋の辺りまで一車線のコンクリート舗装でしたが、それより先の西大道、朝比奈の相武隧道、上郷、原宿まで、あちこちに大きな穴があく悪路が続いていました。冬の乾燥期や雨の降らない時などは、砂埃が舞い上がり、道路の近くの家は随分迷惑したようでした。

しかし、交通量は少なくて、たまに神奈川中央バスや米軍の車が走る程度でした。バスの中には木炭車も混じっており、鼻欠地蔵の前で運転手が降りて車の後方にある釜に木材を補給して朝比奈の峠をのぼって行く光景を覚えています。地元の住人が田畑への往来にリヤカーをひいて通るのどかな田舎道で、お年寄りが通りすがりに、モグラに掘り返された荒れた道を道普請している姿もありました。私の家から畑や田圃越しに六浦原宿線や大道小学校が見渡すことができて、たまに、追浜にあった富士モーターという自動車工場で修理するための軍用の車や消防車などの緊急の車が通ると珍しくて、兄と走って見に行ったものです。

大道は、武陽金澤八勝夜景の図など廣重が描いた金沢八景の景勝地をはじめ、現在は、かなりの部分を埋め立てられましたが平潟湾が近くにあり、海と山が隣接する極めて自然豊かな地でありました。その中でも、大道から朝比奈にかけて続く畑や田圃、人家と田畑や山・丘がうまく調和している里山、そこを流れる侍従川は、私をはじめ子どもたちの絶好の遊び場でした。遊びの種類はたくさんあって、そこに存在するあらゆる物を遊び道具に使いました。侍従会の会報にも先輩諸氏からたくさん紹介されていますが、侍従川での魚捕り遊び、里山での戦争ごっこ遊び、田畑周辺でのかくれんぼなど数え切れない遊びが脳裏によみがえり、私自身が懐かしく当時を想い起こして、読ませて頂きました。

この紙面で一つご紹介したいことは、私たちの住む町の呼び方や名称が時代とともに変わっているということです。例えば六浦は、今では、むつうらと言いますが「むつら」であり、大道は地元の方は「でいどう」と言っていました。朝比奈は朝夷奈(あさいな)、高舟は高宗(たかぶね)という地名が依然は使われていました。この六浦周辺がどのように変わって行ったかを、後で幾つかご紹介します。

まだまだ、沢山の想い出や経験した事柄があり、侍従会の会員である甥の隆夫から投稿を依頼され、当時のことを出来るだけ多く披露するつもりでしたが、事前準備もないまま記述に及び、取り留めのない内容となりましたがご容赦ください。失われた部分が多い、わが故郷を「ふるさと侍従川に親しむ会」の方々により今後も維持管理して頂くことが、残された「自然を守る手段」であると、私も確信しています。橋上から孫の手を引いて侍従川を覗く方々に「昔の侍従川はもっと綺麗でした」などと言い訳を言わなくても良い状態に、現在の侍従川は甦っております。日頃の地道な活動には大変感謝しております。誠にありがとうございます。会員各位には、長くこの地に住む者として心より御礼申し上げます。

【六浦(むつら)の主な変遷】
1147 文久3年 常福寺の阿弥陀堂造営(阿弥陀三尊像は県の重要文化財で今は宝樹院が管理)
1241 文治2年 朝夷奈三郎義秀が一晩で切り開いたという逸話がある朝比奈切通しが開かれる
1422 応永29年 称名寺造営費用の捻出目的で関所を設置(エールコーポレーションの辺り)
1873 明治6年 三分学舎(六浦小学校の前身)が開校する
1889 明治22年 三分村と釜利谷村が合併、後に朝比奈村が加わり六浦荘村ができる
1900 明治33年 池子トンネル(六浦―逗子間)が開通
1911 明治44年 白山道トンネル(六浦―釜利谷間)が開通
1930 昭和5年 湘南電気鉄道(今の京浜急行 黄金町―浦賀、金沢八景―逗子間)が開通
1944 昭和19年 六浦原宿線・相武隧道が開通
1944 昭和19年 大道小学校が大道国民学校として開校
1956 昭和31年 朝比奈―鎌倉間の道路が開通
1963 昭和38年 大道中学校が開校(六浦中学校から分校)
1978 昭和53年 高舟台小学校が開校(大道小学校から分校)

6)私が子どもだった頃【大道町内会 会長 小泉 隆良】

私が子ども時代を過ごした今から50年以上も前の大道は、山に囲まれ、侍従川が流れ、海も近くにあって、子どもたちの遊ぶところがたくさんありました。今の大道小学校が建っているところは、昔は田んぼでカエルがたくさん住んでいました。 夏になると、セミがたくさんいて、うるさいぐらい鳴いていました。

朝寝坊していると友だちにセミとり用のクモの巣を取られてしまうので誰よりも早く起きて取りに行きました。針金で丸くしたものにクモの巣を巻きつけてそれでセミを取るのです。クモの巣は、べとべとしているので一度かかるとセミは逃げられません。 夏休みは、みんなで勉強すると言って出かけるのですが、すぐに遊びたくなって、親には勉強は終わったと言って野島や乙艫海岸に海水浴に行ってしまうこともよくありました。

その頃の遊びは、ベイごま、ビー玉、めんこ、缶けり、騎馬戦、さし網、パチンコなどでした。ベイごまは、学校では禁止されていましたが、人気のある遊びでした。パチンコは二股になった木にゴムを取り付けて作ります。チームに別れて戦争ごっこをやるのです。

私は、小学4年の頃、パチンコで左目の上を負傷して失明寸前になってしまいました。かなり危ない遊びをやっていたんですね。さし網というのは、地面に穴を3つか4つ掘って、そこに遠くからボールを転がして点数を競うというものです。ボールが逃げないように網を張ったことからさし網と呼んでいたのだと思います。

侍従川にではウナギやハゼなど、色々な魚を獲りました。川のそばを掘って水がたまる場所を作るとそこに魚が入ります。その中にカーバイトを放り込んで火をつけると魚が苦しがって水面にあがって来るので、それを捕まえるのです。当時の侍従川には、ホタルが沢山いました。

夜、ホタルを捕りに行くのですが、注意が必要でした。ホタルの光の中にヘビの目玉が混じっているからです。下手に手を出すとヘビに指を噛まれるので木の棒で確かめながらホタルを捕った覚えがあります。

冬は、集会所の近くで凧上げをやって半日過ごしました。その頃は、集会所の回りは一面の田んぼで凧上げをするには格好の場所でした。大道小学校のトンボ池の裏側あたりに、大きな栗の木がありました。それに登って栗を取っていると、栗の木の持ち主のおじさんが出て来て、見つかると怒られるので、3時間もトイレを我慢して木の上にいた苦い経験もあります。

家にいると、外で遊んでこい、と言われるので家の中で遊ぶことはありませんでした。外でめいっぱい遊んで、家に帰るのはいつも夕刻でした。こんな調子で、あまり勉強はしないで就職するまで、毎日楽しく過ごしました。まわりの友だちも同じように遊びまわっていました。

3歳の頃ですが、太平洋戦争で米国の戦闘機が飛来したときに、親に背負われて防空豪へ逃げ込みました。その時に、両手に持っていた、おにぎりを落としてしまったということを、今でも覚えています。それほど、食料が大切な時代でした。

今は、戦争もなく平和で食べ物もたくさんあって、私の子ども時代に比べたらずいぶん良い時代になりました。その分、塾や学校の勉強がたいへんだと思いますが、子どもたちには、自然が豊かな大道で元気に遊んでもらいたいと思います。

5)私が子どもだった頃【ふるさと侍従川に親しむ会 廣瀬隆夫】

私は昭和30年(1955年)に大道で生まれ、侍従川の近くで育ちました。小さい頃は、パソコンもゲームもありませんでしたが、自然がたくさんあって山と川が遊び場でした。

祖父から聞いた話ですが、明治・大正時代の侍従川は、舟を浮かべて海から物を運べるくらい深かったそうです。関東大震災の時に三浦半島全体が隆起したために今の水量になったということです。泥牛橋の近くに昔の川の石垣が見えていますが、昔は川幅が今よりずっと狭くて大雨が降ると氾濫することがありました。伊勢湾台風の時にも氾濫して、今は空き地になっていますが、そのころ建っていた県営住宅の床上まで水が来たことを覚えています。改修工事をして川幅を広げてからは氾濫することはなくなりました。

大雨が降った後は、上流から色々なものが流れて来ました。時には大池(ブックオフの奥にありました)から錦鯉が流れて来たりしました。当時は侍従川に鯉は住んでいなかったので珍しかったのです。ゴミが流されてきれいになった侍従川に入ってメダカやフナを獲るのも楽しみでした。千歳園の横に下水用の土管が埋まっていますが、その工事現場で友だちと大きなウナギを捕まえたことがあります。1週間くらい池に放して泥をはかせた後に、父にさばいてもらって蒲焼きを作ってもらって食べました。蒸さずに焼いたので堅かったのですが、始めて食べた蒲焼きの味は今でも忘れられません。

大道中学の裏山は、道が鎌倉の天園まで続いていて山菜の宝庫でした。春になるとウドやワラビ、ゼンマイ、タラの芽、野生のシイタケなどが採れました。採った山菜は、祖母に料理してもらってワラビ飯などにして食べました。大道中学の奥は深い谷になっていて茅やすすきが一面に生い茂った場所がありました。マムシがたくさんいたのでマムシ谷とも呼ばれていて、子どもが噛まれることもありました。そこでカエルを捕まえて、西大道にあった防火用水でカエルの水泳大会をやって遊びました。

大道中学の横の川は、今では蛍がたくさん住んでいますが、その頃は蛍はいませんでした。私が大道中学に通っていたときに、生物部が南川の田んぼから蛍の幼虫やカワニナをとって来て放しました。今の蛍は、その子孫かもしれません。上流の水源の近くの川底からは清水が湧き出していました。そこには透明な水生エビやゲンゴロウ、ハヤなどがいました。秋になると山から竹を切って、釣り竿にして関東学院の前あたりで、ハゼ釣りをやりました。餌は近くの土をほじくり返して捕まえたミミズです。釣ってきたハゼは昆布巻を作ってもらって食べました。竹といえば、八つ手の実を玉にした竹の鉄砲もよく作りました。上手にできた竹鉄砲を打つとパンと驚くほど大きな音がしました。

東京オリンピックが終わって日本経済の高度成長が始まったころから、山や谷が崩されて大道の地形が大きく変わって行きました。大道中学の谷戸も埋め立てられました。侍従川の改修工事も行われましたが、その頃から川が汚れてきました。最初に川の底が、気持ちの悪い昆布のような藻に覆われました。次にイトミミズやアカムシ(ユスリ蚊の幼虫)が増えました。川全体が悪臭を放って、生き物の姿が全く見えなった時期もありました。

そんな侍従川が本当にきれいになりました。下水道を整備したり、侍従会のメンバーや近隣の小学生による葦の植栽や清掃活動の効果がでてきたのだと思います。今では侍従川は緑に覆われ、ゲンジボタル、ハグロトンボ、クロメダカ、カルガモなどのたくさんの生き物が住むようになりました。

侍従川は照手姫伝説の時代から何百年も流れ続けています。これからもずっと枯れることはないでしょう。子どもたちが大人になった時に、侍従川で、こんな魚を捕ったとか、友だちとこんなことをして遊んだ、などの楽しい思い出を次の世代の子どもたちに語り継いでもらえたら良いなあ、と思っています。