2010年3月11日木曜日

8)私が子どもだった頃【大道町内会 鈴木 巽】

お墓の掃除をするために、小高い山の上にある菩提寺の大道の宝樹院の裏山に登ることがあります。山の傾斜地にある墓地の最上段に立って前方を眺めると、夏島、野島山、六浦方面やお伊勢山から遠く釜利谷方面に続く山々がー望出来ます。更に目の前に飛び込んでくる光景は、平地も山の上も無数の家また家、高層の建物の連続で圧倒されます。じっとその場にたたずんで、自分の幼い頃の、のどかな大道の様子や出来事などを思い返してみることがあります。私は昭和の始め、この宝樹院の石段近くの家で生まれました。現在はお寺の裏側に車が登れる道がありますが、その頃は、その坂道はありませんでした。当時は土葬でしたので、お墓に埋葬するために亡くなった人を担いで長い石段を登るのは大変な労力でした。

その頃、お寺は子どもたちの遊び場でした。お寺の縁側の下の砂地にアリ地獄の巣がありました。アリ地獄は、「うすばかげろう」の幼虫が中に隠れているスリバチ型の穴で、落ち込んだアリなどを捕まえて体液を吸うのです。アリの代わりに、草でつついたりして、いたずらして遊びました。そんな、いたずら坊主たちに、当時、子どものいなかった、お寺の奥さんがよく菓子をくれました。

また、宝樹院の境内には、今は廃寺になっていますが、私たちが常福寺と呼んでいたお寺の小さなお堂がありました。私が小学校低学年の頃、夏休みになると大道の小学生は全員このお堂に夏季学習帳を持って集まり、仏様の前で上級生の指導で勉強しました。夏の楽しい寺子屋でした。私たちが何も知らずに勉強させて貰ったこのお堂の仏様は、平成3年に解体して修理をしたときに、像内の納入品から平安末期の久安3年(1143年)に造立された平安佛であるという証拠が見つかり、この阿弥陀三尊像は神奈川県の重要文化財に指定されました。

私の子どもの頃に大道に建っていた家は、関東大震災で建て直した家以外は、ほとんどが茅葺屋根でした。当時の大道は村として茅場と呼ばれる山を所有していて、毎年、1月中頃になると村人総出で茅刈りに行きました。子どもたちは、昼近くなると親たちが食べる弁当を細い山道を一列になって届けに行きながら、帰りは急な斜面になっている茅場で遊びました。刈り取った茅は夕方大人たちが体が隠れる様な大きな束を背負って山から降りてきて、村の1ケ所に積み上げておき、屋根替えの必要な家から村人総出で葦き替えを手伝いました。葦き替えは屋根屋と呼ばれた人たちを中心に仕上げていく、当時30数軒の家しかなかった村の一大行事でした。

大道の中心を通っていた旧鎌倉街道は、当時、道幅4m弱の砂利道で現在よりも低い位置にありました。六浦原宿線と呼ばれる現在の道路は、当時大船に海軍の施設を作ったので昭和17年から終戦時にかけて、横須賀と大船を結ぶ軍用の道路として突貫作業で改修が行われました。戦前の大道は鼻欠地蔵あたりまで見渡す限りの水田地帯でした。現在の大道橋の上流50m位の所に田圃に引く水をせき止めた大堰があり、堰の上側の水溜まりで子どもたちは泳ぐことが出来ました。更に上流にもう一つ堰がありました。大堰の近くの奥まった谷戸には渇水期の用水のための大池があり、秋になると、この大池の栓を外して水を抜きました。中にはウナギや小魚がいっぱいいて、子どもたちは夢中で捕ったものです。

下流にある山王橋からその上流の現在の二の橋あたりまでの侍従川の南側の川沿い一帯に桃の果樹園があり、春にはー面ピンクの花に覆われました。夏が近くなると、稲の苗作りから田植の時期です。侍従川の堰から導いた水路からの水を、持ち主の違う田圃へ出来るだけ均等に流れ込む様に配分するのが大人たちの仕事でした。小学校から帰ってきた子どもたちは、自分の家の田圃への水がちゃんと流れ込んでいるか見守りに行きました。「我田引水」とは、この様なところからきた言葉なのでしょう。それほど侍従川の水は田圃にとって大切なものであり、大道に住む人たちの命の源でした。

昔の侍従川は大道の辺りでは、もっと浅く、川幅も狭く曲がりくねっている所もあり、童謡に出てくる様な、のどかな清流でした。山王橋から東側は、もう少し山側に入り込んでいた記憶があります。当時の侍従川は、大雨の時は氾濫することもありました。私も侍従川を背にした所に住んでいますので、床上浸水の体験があります。しかし、その後の大改修、下水道の完備、この川を愛してくれる人たちの努力で、氾濫することもなくなり、以前にも増して多くの生き物のいる清流に戻ってくれたことは本当に嬉しいことです。

私の子どもの頃の忘れ難い思い出として、昭和10年代のことがあります。昭和12年に中国と日中戦争が始まり、それが拡大して16年には太平洋戦争に突入しました。その間、近所の大人が兵隊として、次々に出征して行きました。町内の子どもたちも、朝早く、日の丸の小旗を振りながら金沢八景駅まで送って行きました。出征する人は電車の最後尾の窓を開けて、見送ってくれた人たちに必死に両手を振って出発して行きました。私の兄3人も次々に出征しました。太平洋戦争も敗色の濃くなった昭和20年7月、三男の兄がフィリピンのルソン島で戦死したとの公報が届きました。兄の遺留品は何一つ戻ってきませんでした。23歳という若さでした。

米軍の反転攻勢で遂に日本国内への空爆が始まりました。艦載機による機銃掃射、サイパン島を発進した米軍のB29重爆撃機の爆弾や焼夷弾攻撃による攻撃です。昭和20年3月10日には東京大空襲、6月29日の横浜大空襲、そして6月10日には、この金沢区富岡地区周辺がB29による空襲を受けました。当時富岡周辺には横浜海軍航空隊や、日本飛行機、石川島航空工業、大日本兵器などの民間の軍需工場が取り囲む様にありました。横浜海軍航空隊には水上艇が配備され、日本飛行機では練習機を、石川島航空工業では零戦のエンジンを作っていました。私は石川島航空工業で働いていました。

その日は、9時前後だったでしょうか、空襲警報がなり、大多数の従業員は会社の前の山にある大きな防空壕に入りましたが、私は防火隊のメンバーだったので工場内にいました。B29の編隊が見えたと思ったら、いきなりヒューンという音がしましたので、目の前の防火用水のコンクリートの陰に倒れ込みました。大きな爆発音の後、静まるのを待って、様子をうかがうと、隣の日本飛行機、横浜海軍航空隊の方で、黒煙が上がっておりました。その日の夕方、毎日利用していた杉田の駅まで行くと、電車は不通になっていましたので、仕方なく線路の上を金沢ハ景に向けて歩きました。

富岡駅のすぐ手前の短いトンネルに近づき、トンネルの中に止まっている2輛連結の電車を見ますと、窓ガラスが1枚もありませんでした。この日の空襲警報で、この電車は乗客を乗せたまま、このトンネル内に避難していました。そのトンネルの両方の入口に爆弾が落ちて、その爆風で被害にあったのでした。トンネルの中にいた60名の乗客の中の40名くらいの人が即死してしまったそうです。

富岡地区では、この爆弾による空襲で59戸の家屋が全壊して、全焼した家屋は12戸もありました。また、その時の直撃弾でも多くの死傷者が出ました。トンネル内で被害にあった人も含めて、この空襲で亡くなった、たくさんの人々は富岡の慶珊寺(けいさんじ)の広い境内一面に並べられたそうです。

宝樹院の境内にも、太平洋戦争で戦死した大道の人たちの立派な慰霊の碑があります。墓誌によりますと24名の戒名が刻まれています。亡くなった年齢を見ますと多くの人が20歳代の若い人たちです。早いもので戦争が終わってから、65年という歳月が経ち、平和な世の中になりました。しかし、この平和は、この戦争で亡くなった人たちの貴重な犠牲の上で成り立っていると言うことを忘れてはいけません。これから、どんなことがあっても、この悲惨な戦争だけは、絶対に避けなければならないと強く思っています。

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