金沢八景考 平成16年11月14日 廣瀬隆夫
金沢八景という建物も地名もない。この辺の八つの景色についた名である。中国湖南省の瀟江(しょうこ う)と湘江(しょうこう)と呼ばれる川が合流して洞庭湖に注ぐあたりを”瀟湘(しょうしょう)”といい、この瀟湘八景の景色によく似ていることから付けら れたと言われている。三浦半島の付け根に位置し、隣に吉田兼行も学んだ金沢文庫、東には鎌倉への塩の道、朝比奈の切通し、西は自然の良港である平潟湾が広 がっている。かつては、隋からの船も寄港したようで、三艘の船が着いた場所として三艘の地名も残っている。中国からの貨物船にねずみ対策で飼っていた猫が 逃げ出してこの辺りに住みつき、金沢猫と呼ばれるようになったという話も伝わっている。千光寺というお寺には猫塚が残っていて船旅で死んだ猫を弔ったらし い。確かに今でも猫は多い。
風光明媚な金沢八景を写した広重の浮世絵のなどは、今の絵はがきのような役割をしていたものでかなり 流通していたようだ。裏手に九覧亭という見晴台がある金龍院や東屋という料亭が版元になっている。平潟落雁(ひらかたらくがん)、野島夕照(のじませき しょう)、乙艫帰帆(おっともきはん)、洲崎晴嵐(すざきせいらん)、小泉夜雨(こずみやう)、称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)、瀬戸秋月(せとしゅ うげつ)、内川暮雪(うちかわぼせつ)が金沢八景に付けられた名前だが、今も浮世絵と同じ景色が見られるのは、野島の遠景ぐらいだろう。
金沢八景は、鎌倉や江の島に行った帰りに立ち寄ったり、落語でも有名な大山参りの参詣客が泊まること が多かった。海が近いので、そこで捕れた鯛やヒラメを食べながら景色を楽しむという粋な遊びができたようだ。春は潮干狩り、夏は海水浴、秋は月見、冬は雪 見が楽しめた。能見台という高台からは、金沢八景が一望できた。そこには茶屋が出て旅人に饅頭をふるまった。その能見台に戦前まであった「筆捨ての松」が 写真で残っている。その名の由来は、昔、そこを訪れた絵師が八景の景色を描こうと絵筆を持ったが、あまりの美しさに自分の力量を悲観して、その松の根元に 筆を投げ捨ててしまったというものである。大正時代に台風で倒れて、戦時中には燃料の松油をとるという理由で根こそぎ掘り出されてしまった。今では、そこ には「金沢八景根元の地」という石碑だけが立っている。
旅行者に金沢八景のおすすめの景色を聞かれるて答えに窮する時がある。広重の浮世絵に魅せられてこの 地を訪れた人は、皆、落胆する。名勝、金沢八景は、実は古くから開発という名で土木工事が行われ、景色が大きく変わってしまった土地でもある。
古くは、江戸時代に新田開発を目的に埋め立てが行われた。永島泥亀という人がこの工事で莫大な財産を 築いた。今は野島に屋敷跡の門構えと蔵だけが残っている。八景の絵を見るとこの辺りは深い入り江になっていた。今は六浦という地名になっているところも昔 は湾になっていたらしい。昔の人は六浦のことを「むつら」と呼んでいた。文献によると、フグの口のような格好をしていたのでフグラがなまって「むつら」に なり六浦という漢字を当てたと言われている。潮が入るところが狭くなっているのでそこを塞げば容易に埋め立てができた。しかし、埋め立てられた土地は塩分 が多くて良い米は育たなかった。そこで、塩田にしたり、蓮田になった。私の小さいころには蓮田がかなり残っていて、アメリカザリガニを釣って遊んだ覚えが ある。塩場という地名はいろいろなところに残っている。
もう一つの大きな変化は、太平洋戦争である。近くの横須賀には軍港がある。金沢八景は、横浜市だが、 文化圏は完全に横須賀市だ。横須賀に物資を運ぶために道路が整備された。そのとき、琵琶島弁天から瀬戸神社への参道が寸断された。烏帽子岩は、軍事演習で 破壊された。野島には、戦闘機を隠すための巨大な横穴が掘られた。これらの工事には朝鮮の人が借り出されていたと聞いている。この辺は、軍事的に重要な場 所だったらしく、戦前、戦中の写真や地図はほとんどない。戦争という大義名分で短期間に地形が大きく変わってしまった。
最近の変化は、高度成長期の頃だろう。日本中が土地バブルに踊り日本列島改造論というあやしげな理論 がまかり通っていた時代である。金沢八景には、自然の砂浜がかなり残っていた。夏になると海の家が立ち並んだ。アサリやアオヤギの他に剣のようなマテ貝や タニシを大きくした形のスベタなどがたくさん捕れた。アオヤギは、すぐに口をあけてしまうので「バカ貝」と呼ばれていて持ち帰る人はいなかった。後年、寿 司屋のネタになったアオヤギを見て惜しいことをしたと後悔した覚えがある。その海岸線で大がかりな工事が始まった。人工島・八景島、新交通・シーサイドラ イン、それに海の公園である。金沢八景駅のホームから見える茅葺屋根の建物は、400年の歴史を持つ東照大権現(徳川家康)を祀った円通寺の客殿である が、ここも取り壊して駅を作る計画だったらしい。十年近くかかったこの工事で景観は一変した。海の公園という人口砂浜には、自然の貝はほとんどいなくなり (今のアサリは蒔いているもの)、海流が変わったのか、かつての生き物は数を減らし、夏には大量のワカメが流れ着いて異臭を放つようになった。
もし、広重の浮世絵の金沢八景が今でも残っていたらと思うことがある。天の橋立や松島に匹敵するくら いの観光地になっていたことだろう。世界遺産に残せるような場所だったのではないだろうか。同時にそこに住む人々の憩いの場として素晴らしい場所になって いたことだろう。最近、ヨーロッパでは、人間が変えてしまった地形を元に戻そうと言う自然再生運動が始まっている。勝手に川や海を埋め立てたり、山を崩し たりしたことで生態系が乱されて、逆に人間の生活に悪い影響を与え始めたというのである。自然の支配を始めた欧米人からこのような運動が始まったのは皮肉 なことである。和の精神を尊ぶ日本人は、自然とも長い間共存してきた。至る所に神がいて自然破壊をくい止めてきた。ある時、西から吹いてきた近代という風 がその神を吹き飛ばし、高度な土木技術で日本列島は安易に改造されていった。しかし、一度失ってしまった自然や景観はもう二度と蘇ることはない。人間は もっと自然に対して謙虚にならねばならない。
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