2010年3月11日木曜日

2)私が子どもだった頃【ふるさと侍従川に親しむ会 副会長 中山 吉雄】

戦災にあい、私は州崎に5才のときに引っ越してきました。小学校時代の主な遊び場は、泥亀新田・姫の島(「じゆんてん」と呼んでいた)。姫の島は、島の左右に水門があり、干潮時には島より下流・上流どちら側も川に入れ、魚取りなどして遊べました。上流側ではゴカイを取り、平潟湾でハゼ釣りをして楽しみました。平潟側から対岸(柳町)を見ると、葦原が広がっていたと思います。

水門の内側にも葦原があり、大きな池がありました(地区センターの所)。池の左側は宮川、池の向こう側は畑、新田に向かって二本の水路があり、その先に水門、なかは水路が真っすぐのび、その左右は一面ハス田(金沢区役所・君ヶ崎近くまで)が広がり、夏にはハスの花が綺麗に咲いていました。水路には、ボラ・フナ・ウナギ・コイ・ハゼ・メダカ・カダヤシ・ザリガニなど多くの生き物がいて、毎日のように取りに行きました。カダヤシ(当時は、メダカと思っていました。)は卵で産まれるのではなく、稚魚で産まれたと記憶しています。

宮川の左側、ダイエーより先(京急金沢検車区・マンション)の所も一面葦原があり、ここではカモ猟をしていました。中学時代は、宮川の堤防を通って金沢中学校まで通学しました。台風で堤防が破壊すると大変、16号を通って行ったこともあります。釜利谷側、金沢中から手子神社・釜利谷南県住の所まで、ここも田と畑、緑いっぱいでした、称名寺にも遊びに行き、銀杏を拾いました。

裏山(坊主山)の山頂には八角堂があり、何時の事か入り口が壊され、荒らされ持ち去られたのでしょう、中には何もありませんでした。称名寺の山から行く先もわからぬまま、今の西柴町方向に山道を遊びまわったり、春には山百合の球根を取りに行きました。この辺も見渡す限り山、緑いっぱい。

また、釜利谷東、赤井より六国峠に、能見台跡〜円海山〜天園など友達と何度も行きました。六国峠から見た景色は、富岡西・栄区方面は山が連なっており、峠からは海も見えました。小学校の時、一度だけ近所の中学生1人と子ども6〜7人で、六国峠を通り鎌倉まで行き、長谷観音、大仏で遊び、鶴岡八幡宮に行き、帰りは朝比奈峠に。峠の途中でだんだん暗くなり始め、下りた時は薄暗く(誰も親に行く事を告げてなかった)、親たちは近所の子どもが誰もいないので心配で、外で待っていました。家に着いた時は暗くなり、全員怒られたことを思い出します。

そうそう、海にも行きました。今の海の公園は、当時は海。金沢海岸通りの町屋町辺りに松の木が何本も残っています。ここに砂浜があり、波打ち際でした。この海で、バケツ一杯アサリを何度も取りました。当時は有料で、掘っているとおじさんが徴収に来たものです。野島にも行きましたが、当時は野島橋がなく、渡し舟で渡った覚えがあります。子どもの頃は川や泥亀新田、海、緑の山々と今思えば素晴らしい自然の中で思い切り遊んでいました。

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